NHK大河ドラマどうする家康第12話では、戦国の名門今川氏の滅亡が描かれます。滅亡の前年、義元の首を獲った織田信長は上洛を果たしている事から対照的な運命ですが、今川氏の拠点駿府落城はどのようなものだったのでしょうか?
武田信玄が手の平を返して駿河を狙う
桶狭間の戦いで当主、今川義元を失った後、急速に衰えていく今川氏ですが、要となっている甲駿同盟はしばらく健在でした。氏真は桶狭間の後、駿河に隣接する甲斐河内領主の穴山信友を介して武田との同盟を再確認。信玄も氏真に対して、武田と今川の関係を破壊するような讒言が飛び交っているので注意するように書き送っています。
しかし、信玄は川中島の戦いが膠着し越後の海を手に入れるのが不可能と悟ると秘密裏に外交政策を180度転換、謙信と和睦して駿河の海を奪おうと画策します。そして永禄8年(1565年)信玄は今川氏に攻め込む事に反対する嫡男の武田義信を幽閉して廃嫡し、2年後に義信の正室で氏真の妹だった嶺松院を駿河に送り返しました。
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織田家と婚姻関係を結び家康と同盟する信玄
武田信玄は、廃嫡した義信に代わり諏訪勝頼を嫡男とし、正室に信長の養女龍勝院を迎え同時に徳川家康とも盟約を結びました。この時信玄は、駿河を武田領とし遠江を徳川領とする事で合意したとされます。氏真は武田への対抗策として上杉謙信と和睦、舅である北条氏康と協力して甲斐への塩の輸出を禁止する経済制裁に出ます。こうして武田と今川は一触即発となり、永禄11年(1568年)12月12日に信玄は甲府を出発し駿河への侵攻を開始します。
今川氏真は薩埵峠で武田軍を迎撃すべく興津の清見寺に出陣しますが、すでに駿河の有力国人、葛山氏元や朝比奈政貞等21人が武田信玄に通じ足並みは揃わず、12月13日に今川軍は潰走し本拠地の駿府も陥落しました。
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掛川城に籠城し踏ん張る氏真
氏真は、朝比奈泰朝の居城である掛川城へ逃走しますが、正室早川殿のための乗り物も用意できず、今川氏代々の判形も途中で紛失する惨めな負け戦となります。信玄と今川領の分割で合意していた徳川家康も同時に遠江に侵攻しその大半が制圧されました。勢いに乗る徳川軍は、12月27日に掛川城を包囲しますが、忠臣朝比奈泰朝を初め、意地を見せる今川家家臣らの抵抗で半年近くの籠城戦が続きます。
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北条氏の援軍で持ちこたえる
今川氏真の正室、早川殿の父である北条氏康は救援軍を差し向けて薩埵峠に布陣します。北条軍は戦力に勝り、優勢に展開するものの、武田軍撃破には至らず戦線は膠着しました。武田信玄は、徳川軍が掛川包囲戦で苦戦しているのを見て取ると、助けるどころかこれ幸いと、徳川の取り分と認めた遠江に侵攻を開始します。
徳川家康は信玄を遠江から追い払うために氏真との和睦を考え、永禄12年(1569年)5月17日、氏真は家臣の助命と引き換えに掛川城を開城しました。この時、氏真と家康、氏康の間で、武田勢力を駿河から追い払った後、氏真を再び駿河の国主として立てる盟約が交わされたとしますが、これは履行されず、掛川城の陥落で戦国大名今川氏は滅亡したと解釈されています。
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日本史ライターkawausoの独り言
桶狭間の敗戦から9年間も持ちこたえた今川氏真は、言われるほど暗愚ではなかったのでしょう。それも序盤の段階で信玄に甲駿同盟はまだ有効?と探りを入れる辺りは、外交面では強かさを持っている感じがします。掛川城の陥落で戦国今川氏は滅亡しましたが、家康と氏康との間で駿府から武田を追い払ったら氏真を駿河の大名として認めると盟約を結ぶなど、実現はしなかったものの氏真は政治力では抜きんでたものを持っていたかも知れませんね。
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