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戦国今川氏の落日!駿府落城はどうやって起きた?【どうする家康】

21/03/2023


 

コメントできるようになりました 織田信長

各地を放浪し続けた今川氏真

 

NHK大河ドラマどうする家康第12話では、戦国の名門今川氏の滅亡が描かれます。滅亡の前年、義元の首を獲った織田信長は上洛を果たしている事から対照的な運命ですが、今川氏の拠点駿府落城(すんぷらくじょう)はどのようなものだったのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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武田信玄が手の平を返して駿河を狙う

singen-takeda(武田信玄)

 

桶狭間の戦いで当主、今川義元を失った後、急速に衰えていく今川氏ですが、要となっている甲駿同盟はしばらく健在でした。氏真は桶狭間の後、駿河に隣接する甲斐河内(かわち)領主の穴山信友(あなやまのぶとも)を介して武田との同盟を再確認。信玄も氏真に対して、武田と今川の関係を破壊するような讒言(ざんげん)が飛び交っているので注意するように書き送っています。

 

武田信玄

 

 

しかし、信玄は川中島の戦いが膠着し越後の海を手に入れるのが不可能と悟ると秘密裏に外交政策を180度転換、謙信と和睦して駿河の海を奪おうと画策します。そして永禄8年(1565年)信玄は今川氏に攻め込む事に反対する嫡男の武田義信を幽閉して廃嫡し、2年後に義信の正室で氏真の妹だった嶺松院(れいしょういん)を駿河に送り返しました。

 

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武田信玄

 

 

 

織田家と婚姻関係を結び家康と同盟する信玄

武田信玄が作った甲陽軍鑑

 

武田信玄は、廃嫡した義信に代わり諏訪勝頼(すわかつより)を嫡男とし、正室に信長の養女龍勝院(りゅうしょういん)を迎え同時に徳川家康とも盟約を結びました。この時信玄は、駿河を武田領とし遠江を徳川領とする事で合意したとされます。氏真は武田への対抗策として上杉謙信と和睦、舅である北条氏康と協力して甲斐への塩の輸出を禁止する経済制裁に出ます。こうして武田と今川は一触即発となり、永禄11年(1568年)12月12日に信玄は甲府を出発し駿河への侵攻を開始します。

 

炎上する城a(モブ)

 

 

今川氏真は薩埵峠(さったとうげ)で武田軍を迎撃すべく興津(おきつ)清見寺(せいけんじ)に出陣しますが、すでに駿河の有力国人、葛山氏元(かつらやまうじもと)朝比奈政貞(あさひなまささだ)等21人が武田信玄に通じ足並みは揃わず、12月13日に今川軍は潰走し本拠地の駿府も陥落しました。

 

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掛川城に籠城し踏ん張る氏真

城攻めをするシーン(日本戦国時代)モブ

 

氏真は、朝比奈泰朝の居城である掛川城へ逃走しますが、正室早川殿のための乗り物も用意できず、今川氏代々の判形(はんぎょう)も途中で紛失する惨めな負け戦となります。信玄と今川領の分割で合意していた徳川家康も同時に遠江に侵攻しその大半が制圧されました。勢いに乗る徳川軍は、12月27日に掛川城を包囲しますが、忠臣朝比奈泰朝を初め、意地を見せる今川家家臣らの抵抗で半年近くの籠城戦が続きます。

 

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北条氏の援軍で持ちこたえる

堅城小田原城に籠城する北条氏康

 

今川氏真の正室、早川殿の父である北条氏康は救援軍を差し向けて薩埵峠に布陣します。北条軍は戦力に勝り、優勢に展開するものの、武田軍撃破には至らず戦線は膠着しました。武田信玄は、徳川軍が掛川包囲戦で苦戦しているのを見て取ると、助けるどころかこれ幸いと、徳川の取り分と認めた遠江に侵攻を開始します。

 

実はヒャッハーな武田信玄

 

徳川家康は信玄を遠江から追い払うために氏真との和睦を考え、永禄12年(1569年)5月17日、氏真は家臣の助命と引き換えに掛川城を開城しました。この時、氏真と家康、氏康の間で、武田勢力を駿河から追い払った後、氏真を再び駿河の国主として立てる盟約が交わされたとしますが、これは履行されず、掛川城の陥落で戦国大名今川氏は滅亡したと解釈されています。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

kawauso

 

桶狭間の敗戦から9年間も持ちこたえた今川氏真は、言われるほど暗愚ではなかったのでしょう。それも序盤の段階で信玄に甲駿同盟はまだ有効?と探りを入れる辺りは、外交面では強かさを持っている感じがします。掛川城の陥落で戦国今川氏は滅亡しましたが、家康と氏康との間で駿府から武田を追い払ったら氏真を駿河の大名として認めると盟約を結ぶなど、実現はしなかったものの氏真は政治力では抜きんでたものを持っていたかも知れませんね。

 

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カワウソ編集長

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
【好きな歴史人物】
勝海舟、西郷隆盛、織田信長

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