掛川城はどんな城?忠臣・朝比奈泰朝が今川氏真を守った今川最後の砦

20/03/2023


 

コメントできるようになりました 織田信長

後世から評価の悪い今川氏真(読者)

 

NHK大河ドラマ「どうする家康」においてほとんどイイとこなしの今川氏真、特に猜疑心(さいぎしん)の強さは抜きんでていて、部下の信望を失い今川氏からは続々と国人衆が寝返っていきました。しかし、今川氏にも忠臣はいて、掛川城で最後の籠城戦を指揮した朝比奈泰朝(あさひなやすとも)もそんな1人でした。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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掛川城の歴史

名古屋城

 

掛川城は、室町時代中期の文明年間に今川義忠(いまがわよしただ)が重臣の朝比奈泰煕(あさひなやすひろ)に命じて築城したと伝えられています。築城当初は龍頭山(りゅうずやま)より北東の子角山(ねずみやま)に築かれており現在の城は1513年に新たに築城されたものです。掛川城は代々朝比奈氏が城代を務めていましたが1568年(永禄11年)、朝比奈泰朝が城代を勤めている時代に大事件が起きます。駿府の今川氏真が甲斐の武田信玄と三河の徳川家康の挟み撃ちに遭遇し大敗、駿府館を捨て泰朝のいる掛川城に逃げ延びてきたのです。

 

各地を放浪し続けた今川氏真

 

 

勢いに乗った徳川勢は掛川城を包囲、その間も今川氏重臣の離反は相次ぎますが、掛川城代、朝比奈泰朝は氏真に忠義を尽くし賢明に城を守ったためなかなか落城しませんでした。しかし、援軍が期待できない状況での籠城は絶望的であり、氏真と泰朝は協議の末1569年2月8日(永禄12年1月23日)に掛川城を開いて相模国の小田原城へ退去。ここに戦国大名今川氏が事実上滅亡します。

 

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掛川城には石川家成が入城

石川数正

 

主が消えた掛川城には城代として家康重臣、石川家成(いしかわいえなり)康通(やすみち)親子が入ります。しかし、間もなく駿河に入った武田信玄が徳川家康と敵対、掛川城に程近い牧之原台地に諏訪原城(すわはらじょう)を築城し、掛川城の南方の高天神城(たかてんじんじょう)で武田と徳川の激しい攻防戦が繰り広げられます。それでも、掛川城は1582年(天正10年)の武田氏の滅亡まで徳川氏が領有を続けました。

 

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朝比奈泰朝はどんな人?

竹崎季長(鎌倉武士)

 

最期まで今川氏真に忠義を尽くした朝比奈泰朝は、朝比奈泰能(あさひなやすよし)の子として天文7年(1538年)頃に誕生します。生母について記した記録はありませんが、父・泰能の正室は今川義元の母寿桂尼(じゅけいに)の姪にあたり、今川氏との関係は緊密であった事が窺えます。

 

若き頃の織田信長に敗れる今川義元

 

泰朝は父の死後に家督を継承し備中守を称し永禄3年(1560年)今川義元の尾張侵攻で井伊直盛(いいなおもり)と共に織田氏の鷲津砦(わしづ)を攻略して窮地にあった大高城を救います。しかし、後続していた本隊の今川義元が桶狭間の戦いで討死したのでやむなく砦を放棄し撤退しています。

 

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今川氏真に従い滅びゆく今川氏を支える

炎上する城a(モブ)

 

今川義元の死後、三河及び遠江では動揺が拡大し国人が次々に離反しますが、泰朝は氏真を支えて、謀反の疑いがある国人勢力を粛清し、一方では三浦氏満と共に越後国の上杉氏と交渉にあたり和睦を模索しています。永禄11年(1568年)12月、武田と徳川の挟み撃ちにより氏真が駿府を追われると、泰朝は氏真を掛川城に迎えて保護しました。それはつまり昇り調子の徳川家康に敵対する事ですから、見上げた忠義というしかありません。

 

逃亡する兵士 日本史ver

 

 

徳川家康は引間城などを陥落させた勢いで、泰朝が守る掛川城を包囲。絶望的な状況下で今川重臣の大半は氏真を見限り武田や徳川に寝返りますが、泰朝は徹底抗戦して氏真の身柄を守り抜きましたが、援軍が来ない状況での籠城には限度があり、1569年2月8日に開城し、ここで戦国大名今川氏は事実上滅亡しました。

 

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今川滅亡後も今川再興に尽力するが

北条氏康

 

城を徳川家康に明け渡した今川氏真は北条氏の庇護を受けて伊豆へ向かいますが、泰朝も徳川に降る事を潔しとせずに同行しています。氏真は北条氏の指揮下で息子に家督を譲って隠居しますが、泰朝は今川氏再興の夢を捨てず上杉謙信の家臣である山吉氏に援助を要請するなどの活動をしていたようです。

Changan(長安)

 

北条氏は氏康が死んで氏政が家督を継ぐと氏真に対して冷淡になり、氏真は今度は家康を頼って浜松城に出向きますが、怨敵徳川氏に降った氏真に愛想が尽きたのか、泰朝は従わずに今川家臣を離脱しています。朝比奈泰朝のその後の消息は不明ですが子孫は徳川家臣の酒井忠次家に仕えていく事になりました。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

kawauso

 

引間城を徳川氏が雄飛する拠点の城とするならば、掛川城は今川氏の最期を飾る終焉の城と言えるでしょう。そして、今川氏真が曲がりなりにも戦国を生き残って天寿を全う出来たのは、朝比奈泰朝が落ちぶれた氏真を見捨てずに掛川城に匿い、決死の籠城戦を戦い抜いたからでした。

 

もし、朝比奈泰朝が氏真を匿わなければ、氏真は駿府落城の混乱の中で武田か徳川に寝返ろうとする国人勢力の格好の手土産となり、首を討たれて今川氏は混乱の中で消滅していたかも知れません。掛川城と朝比奈泰朝は今川氏が江戸時代まで生き抜くために無くてはならない存在だったのです。

 

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