戦国時代

犬伏の別れとは?真田父子の別れは予定通りの決別だった

真田信繁

 

犬伏(いぬぶし)の別れとは、NHK大河ドラマ「真田丸」で主人公になった真田信繁(さなだのぶしげ)、その父の真田昌幸(さなだまさゆき)、兄の真田信之(さなだのぶゆき)の3名が関ケ原の戦いの直前に、東軍と西軍のどちらにつくかを話し合った協議の事です。

 

この協議で信繁と昌幸は石田三成(いしだみつなり)の西軍へ信之は徳川家康(とくがわいえやす)の東軍につき、親子の運命が別れてしまいます。それまで固い結束で結ばれていた真田父子はどうして東軍と西軍に分かれてしまったのでしょうか?

 

全ては上杉景勝の城普請から始まる

徳川家康

 

慶長(けいちょう)3年(1598年)太閤秀吉(たいこうひでよし)が病没すると徳川家康は早速、豊臣恩顧(おんこ)の大名の抱き込みを始めます。会津の大名上杉景勝(うえすぎかげかつ)は家老の直江兼続(なおえかねつぐ)が五奉行の石田三成と懇意(こんい)あった経緯から徳川家康と対立します。慶長5年3月になると景勝は、居城の鶴ヶ城から会津盆地の中央に新しい城の建築を開始します。これに対し家康は、この時期に城普請(しろぶしん)とはどういう事か?申し開きをせよと上杉景勝に召還命令(しょうかんめいれい)を出しますが景勝は拒否しました。

 

代わりに直江兼続がいわゆる直江状で家康の横暴を非難したので、家康は激怒し五大老筆頭として会津討伐に豊臣の代表として出陣、真田父子は、この時、家康に従軍して会津征伐に向かう事になります。

 

しかし、徳川の先鋒部隊が集まる宇都宮城まであと僅かの下野国犬伏に辿り着いた頃、真田父子に石田三成から三奉行の連署入りの密書が届きます。そこには「豊臣家の為に家康を討つべく挙兵する」と書かれていました。家康について上杉を討つか?三成について家康と戦うか?究極の決断を迫られた真田父子は人払いをして真田家の行く末について、協議を開始します。

 

真田昌幸と真田信繁は西軍、真田信之は東軍につく

軍旗

 

協議の冒頭で真田昌幸は石田三成に加勢する決意を表明、信繁も昌幸に同意します。しかし、信之は家康の動員に基づいてここまできておいて今さらそれを裏切るような真似はいかがなものかと反対します。

軍議

 

昌幸はそれに対し、信之の意見を尊重しつつも、戦国の世に生まれたからには領国の拡張を図り天下に覇を唱えるのが男子の本懐と告げました。これに対し信之は懸命に説得しますが、昌幸も信繁も信念を曲げませんでした。かくして、これまで困難を乗り越えて来た真田父子は(たもと)を分ってしまうのです。

 

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袂を分った瞬間に戦闘モードの真田父子

鉄砲の射撃

 

現代の感覚だと、敵味方に別れてもお互いの姿が見える間は名残(なごり)惜しそうにしそうなものですが、さすがに戦国武将はシビアです。東軍と西軍に別れた瞬間、昌幸と信繁は上田城へ軍を急ぎ、信之は全軍に厳戒態勢を取らせています。慶長記略抄(けいちょうきりゃくしょう)という史料では昌幸・信繁と別れた信之は宇都宮の家康の前に参上してから二人の裏切りを報告しすぐに鉄砲隊を率いて攻撃を仕掛けたそうです。

 

エグイ話ですが、家康は信之の行動を褒め、戦争に勝利したら昌幸の所領を信之に与えると約束します。さらに信之は4歳の嫡男、信政を重臣矢沢頼幸に同伴させて江戸に人質として送りました。

 

真田昌幸の沼田城乗っ取り未遂?

真田信繁

 

犬伏の別れの逸話として有名なものに上野・沼田城に到着した昌幸と信繁父子が密かに、この城を乗っ取ろうと算段したというものがあります。

しかし、それを察知した信之の正室小松姫が頑として二人の入城を拒否。無理やりに入城するなら徹底抗戦すると告げて厳戒態勢を敷きます。小松姫は本多忠勝(ほんだただかつ)の娘であり、父同様に肝が据わった女性でした。

 

これには、表裏比興(ひょうりひきょう)の者と呼ばれた策士の昌幸も閉口し「孫の顔が見たいだけだ」と告げて、油断させようとすると、小松姫が子供を連れて城外に出てきて「はい、見せました。お引き取り下さい」と告げたので、二人は何も出来ずに沼田を引き上げたそうです。

 

実は犬伏の前から別れは決まっていた?

石田三成

 

悲しくも潔い真田父子の別離ですが、実際には犬伏以前に父子が別れるのは決まっていたようです。それというのも、関ケ原の合戦以前に真田昌幸と信繁父子は大谷吉継にそれぞれ人質を確保されていました。もちろん、もし信繁と昌幸が東軍につけば、吉継は人質を殺した事でしょう。

 

一方で信之は小松姫と子息を事前に沼田に返していて、西軍に人質に取られる事はありませんでした。この重大事を昌幸や信繁が考えなかったとは思えず、人質を大坂に置いたままだという事は最初から西軍に就くつもりだとも考えられます。じゃあ、どうして真田父子は犬伏で協議を持ったのか?

京都御所

 

それは信之が、天下はすでに徳川のものだから悪あがきはやめよと、昌幸を説得したくて開いたのかも知れません。信之の正室は徳川の重臣本多忠勝の娘であり、今からでも徳川につけば、悪いようにはならないという算段があったのではないかと思います。しかし、家康が嫌いで天下への野心を捨てない昌幸がついに説得に応じなかったというのが真相ではないでしょうか?

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso

 

どちらが勝利するか分からない戦いで一族が敵味方に別れるというのは、真田父子に限らずよくありました。例えば関ケ原に限っても、前田利家(まえだとしいえ)の嫡男の前田利長(まえだとしなが)利政(としまさ)の兄弟、蜂須賀家政(はちすかいえまさ)至鎮(よししげ)の父子、毛利輝元と吉川広家は従兄弟同士で東西両軍に別れています。

 

こうした事は、どちらかが滅んでもどちらかが残る事で家を存続させるという執念の下で繰り返され、働き次第では敗者になったサイドの一族が助命される事にも繋がりました。真田家にしても、信之の働きで昌幸も信繁も斬首されずに首が繋がったのです。

文:kawauso

 

関連記事:「真田丸」の明智光秀と「麒麟がくる」の明智光秀の違いとは?

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コメント

    • 匿名
    • 2020年 7月 30日

    >真田昌幸と信繁父子は大谷吉継にそれぞれ人質を確保されていました。
    人質にされていたのは真田昌幸の正室・山手殿と信繁の妻子と思われますが、山手殿は石田三成の正室・皎月院の姉である可能性があり、一方、信繁の妻・竹林院と子供たちは大谷吉継の娘と孫。吉継に彼らを殺せると思いますか?
    そもそも大谷吉継は上杉攻めに参加すべく国を立ち、途中三成を説得するために佐和山に立ち寄り、逆に説得されて西軍についたので、その時点までは人質ではなかったはず。

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