真田三代、幸隆、昌幸、信繁とは?信濃の小豪族から日本一の兵と呼ばれるまでを解説

14/04/2022


真田丸

 

戦国大名を三代で解説するシリーズ。今回は真田氏(さなだし)を取り上げます。初代幸隆(ゆきつな)・二代昌幸(まさゆき)・三代信繁(のぶしげ)彼らはどのように家督を引き継ぎ、そして戦国の世をどう生き抜いたのか、時系列に解説していきます。

 

 

 

真田一族は信濃国で誕生

信濃国

 

真田氏は信濃国(しなののくに)(長野県)で興った豪族です。真田氏の系図によれば、平安初期の清和天皇(せいわてんのう)での第4皇子貞保親王(さだやすしんのう)の孫とされる善淵王(よしふちおう)の流れです。善淵王は醍醐天皇(だいごてんのう)より905(延喜(えんぎ)5)年に滋野姓(しげのうじ)を賜り、皇籍を離れて滋野善淵(しげののよしふち)となりました。

 

滋野氏は3つの家に分かれ、東信濃地域を勢力下におきます。そのうちのひとつ海野氏(うんのうじ)の系統が、真田氏につながっていきました。鎌倉時代で源頼朝(みなもとのよりとも)の御家人だった海野幸氏(うんのゆきうじ)の時代に海野氏の勢力が急拡大し、一族が各地を治めます。

 

源頼朝に降伏して御家人となる畠山重忠

 

その幸氏の孫に海野幸継(うんのゆきつぐ)というものがいて、その七男・幸春(ゆきはる)が、真田の地(小県郡真田町)に住むことになり、以降真田氏を名乗るとされます。

 

 

つまり鎌倉時代の真田幸春(さなだゆきはる)が真田氏の祖であり、以降真田氏が海野氏の一族として真田の小豪族であったとなりますが、戦国時代まで目立った記録はありません。

 

ただし系図は残っており、次に真田が歴史の表舞台に登場するのは、初代幸春から数えて12代目の子孫にあたる真田頼昌(さなだよりまさ)です。ただしこの間の記録が残っていないため、歴史家の間では真田氏の祖について現在も研究途上です。

 

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武田信玄

 

 

初代・真田幸隆が主君海野氏の娘を娶り台頭

六文銭

 

今回取り上げる初代・真田幸隆(さなだゆきたか)が真田家当主になるまでの経緯を紹介しましょう。それにはまず先代で実質的な真田家初代と比定されている、真田頼昌の時代から見る必要があります。

 

頼昌は、同族本家である海野棟綱(うんのむねつな)の娘を娶りました。その子供が幸隆です。また海野棟綱の子との説もあります。本家の娘との子、あるいは本家の庶子が幸隆という血筋上の条件から真田家を継いだと考えられます。

 

頼昌の名前は記録に残っていますが、彼の時代に具体的に何をしたのかということについては情報がありません。ただ残されていた位牌から1523(大永(だいえい)3)年に没したとあるので、これ以降、幸隆が真田家当主を継いだものと推測されます。

 

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はじめての戦国時代

 

 

武田晴信に仕え勢力を伸ばす

甲斐統一を果たす武田信虎

 

真田幸隆の時代は、甲斐(山梨)の武田氏(たけだし)が国内統一と信濃の国の進出を行っている最中でした。武田信虎(たけだのぶとら)信玄(しんげん)の父)が、信濃の国人と組んで、1541(天文(てんぶん)10)年に海野棟綱をはじめとする滋野三家の拠点(信濃小県郡・佐久郡)に侵攻。海野平の戦いが起こり、海野勢は敗れ去ります。

 

武田信虎を追放する武田信玄

 

この戦いに幸綱が戦った記録はないものの、他の海野一族とともに上野国(こうずけのくに)(群馬県)に亡命します。その後信虎が晴信(はるのぶ)(信玄)に追放され、武田氏の代が変わると、幸隆は晴信に従うようになります。

 

村上義清

 

そして武田氏家臣として信濃先方衆(しなのさきてしゅう)として軍役を務め、信濃の国人衆の調略を行いました。信濃で最後まで武田に抵抗していた村上義清(むらかみよしきよ)が、越後(新潟県)に逃れたころには完全に旧領を回復しました。

 

上杉謙信

 

幸隆は川中島(かわなかじま)の合戦にも出陣し、敵方の長尾氏(ながおし)の最前線として戦いました。後に息子信綱とともに武田二十四将に加えられています。晴信が出家し、信玄を名乗るようになると、幸隆も出家して一徳斎を名乗ったとも伝わります。

 

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上杉謙信特集

 

 

長篠の戦いで兄が死に家督を継いだ真田昌幸

真田昌幸

 

真田 昌幸(さなだまさゆき)は、幸隆の三男です。そのときにはふたりの同母兄、信綱(のぶつな)昌輝(まさてる)がいました。信綱は真田の後継者として武田家の騎馬200騎を持ち、昌輝は騎馬50騎を持つ侍大将として独立しました。

 

昌幸は、家督相続の可能性は薄く、幼少の頃には武田の人質として甲斐に送られ、信玄の奥近習衆(おくきんじゅうしゅう)となっていました。やがて信玄の母方である大井氏(おおいし)の支族、武藤氏(むとうし)の養子となり足軽大将(あしがるたいしょう)になりました。

 

昌幸の名前が出始めたのは1569(永禄(えいろく)12)年の小田原攻(おだわらぜ)めの時で、北条氏(ほうじょうし)との戦いで一番槍を挙げました。その才能は信玄も認めており、駿河(するが)信仰の偵察などを務めました。こうして信玄の側近としての日々を送りました。

 

長篠の戦い(鉄砲一斉射撃)

 

信玄の死後、武田勝頼(たけだかつより)が家督を継ぎ、引き続き勝頼に仕えましたが、転機が訪れたのは1575(天正(てんしょう)3)年でした。すでに父・幸隆が死去し、長兄・信綱が後を継ぎましたが、この年に行われた織田信長(おだのぶなが)との長篠(ながしの)の合戦で次兄・昌輝とともに討ち死にしてしまいます。信綱には子がいましたが、勝頼の命令により昌幸が真田家当主を継ぐこととなりました。

 

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武田、織田、徳川、北条の間を綱渡りする昌幸

上杉謙信と武田信玄の戦争

 

家督を継いだ真田昌幸は当初は自領と武田家と勝頼のいる甲府の往復をしていました。その間、越後で謙信の後を継いだ上杉景勝(うえすぎかげかつ)との同盟、北条側の所領だった沼田領などを攻略するなどしましたが、1582(天正10)年に、信長により武田氏は滅亡。

 

昌幸は最後まで武田家の忠誠を示す一方で、周辺大名との接触を図りながら生き残りを模索していました。信長の家臣に取り込まれた後は、重臣滝川一益(たきがわかずます)の与力となります。しかしわずか3ヶ月後に起きた本能寺(ほんのうじ)の変で信長が死ぬと、織田家臣団は美濃方面に逃走。

 

本能寺の変で「是非に及ばず」と切り替えの早い織田信長a

 

周辺の大名による旧武田領の争奪戦が始まりました。これに昌幸も参加。旧武田家家臣を取り込みます。さらに滝川一益が北条氏に敗れると一益を送り届けた後、沼田城を奪還します。

 

野望を持ち始めた徳川家康

 

その後上杉景勝、北条氏政(ほうじょううじまさ)徳川家康(とくがわいえやす)と、主君を何度も入れ替えながら最終的に羽柴秀吉(はしばひでよし)陣営に加わり、家康と対立しました。この後第一次上田合戦(うえだかっせん)として家康が侵攻してきますが、これに勝利しています。この間、沼田への攻撃や大名同士の約束で沼田領が奪われかけますが、昌幸は断固として拒否します。

 

豊臣秀吉 戦国時代

 

1586(天正14)年には秀吉の命令により家康の与力となりますが、その2年後に大坂に行き、秀吉と謁見(えっけん)。正式に豊臣大名となりました。

 

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本能寺の変の特集

 

 

家督は継げないが独立し、大坂の陣で有名になった真田信繁

真田丸 真田幸村

 

真田 信繁は、別名の幸村(ゆきむら)が有名です。結論を言うと真田昌幸の次男である信繁は真田本家を継いでいません。継いだのは長男、信之(のぶゆき)です。

 

ただ歴史上の活躍としては信繁の方がはるかに有名。信繁は父・昌幸が秀吉に服属した際に、人質として大坂に送られました。小田原征伐では、石田三成(いしだみつなり)の指揮下で忍城を攻めました。そのころに大谷吉継(おおたによしつぐ)の娘を正室に迎えています。

 

石田三成に加勢した大谷吉継

 

朝鮮出兵(文禄(ぶんろく)の役)にも参陣の記録が残っています。1594(文禄3)年に豊臣姓を賜り従五位下左衛門佐(じゅごいげ・さえもんのすけ)に叙任されています。このころには秀吉の馬廻衆(うままわりしゅう)(親衛隊のような護衛)となっており、昌幸とは別に1万9000石を有していました。そのため真田の家督を継ぐのではなく、分家し、独立した大名の扱いになっていたと考えられます。

 

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三国同盟を潰したあの男

 

 

大坂の陣で真田丸を築いて奮戦した信繁

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

秀吉が亡くなり、(せき)(はら)の合戦を迎えるにあたり、昌幸と次男信繁が西軍につくことになり、長男信之は東軍になります。昌幸と信繁が石田三成や大谷吉継といった西軍側に近く、信之が徳川家重臣・本多忠勝(ほんだただかつ)の娘を妻に迎えていたために東軍側に近いという事情や、東西どちらが勝利しても真田家を残すためともいわれています。

 

6時間で決着がついた関ヶ原の戦い(石田三成)

 

関ケ原の前哨戦である第二次上田合戦では、昌幸と信繁が秀忠(ひでただ)軍を苦しめ、関ヶ原本戦への遅参につながりました。本線で東軍が勝利すると信之が正式に真田家を継ぎ、上田藩を9万5000石を拝領、立藩します。

 

対して昌幸と信繁は命を助けられ高野山麓の九度山(くどやま)に配流されます。父・昌幸は1611(慶長(けいちょう)16)年に死去しました。信繁は出家しますが、豊臣氏と徳川氏との対立が始まると、豊臣家は浪人を集めようとします。

 

信繁はこれに応じて大坂城に入り、大坂側として大坂の陣を戦いました。信繁は大阪城の弱い部分とされるところに真田丸(さなだまる)という出城を築いて戦います。冬の陣での活躍もあり、夏の陣が始まる前に徳川方から10万石を条件に寝返るように説得を受けますが、信繁はこれを拒否、そのまま夏の陣を迎えます。

 

そして死を覚悟した信繁の真田隊は、徳川の大軍を翻弄し、ついに家康本陣に迫りました。家康が自害を確保するほどの奮戦ぶりを見せつけます。しかし、数の力で圧倒された真田隊は撤退。最終的に信繁は四天王寺近くの安居神社(やすいじんじゃ)で、越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次(にしおむねつぐ)に打ち取られました。

 

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47都道府県戦国時代

 

 

真田三代の有力家臣

軍議(日本史)モブb

 

矢沢頼綱((やざわよりつな)幸隆の弟・昌幸の叔父)

常田隆永(ときだたかなが)(幸隆の弟・昌幸の叔父)

常田俊綱(ときだとしつな)(幸隆の甥・昌幸の従兄弟)

鎌原幸重(かんばらゆきしげ)(鎌原城主・幸隆の甥、昌幸の従兄弟)

大戸真楽斎(おおとしんらくさい)(手子丸城主(大戸城主)、幸隆に味方)

海野輝幸(うんのてるゆき)(沼田城代、幸隆・昌幸の家臣)

根津昌綱(ねづまさつな)(禰津城主、昌幸の家臣)

恩田越前守(おんだえちぜんのかみ)伊賀守(いがのかみ)(森下城主、昌幸の家臣)

鈴木重則(すずきしげのり)(名胡桃城主、昌幸の家臣)

丸子三左衛門(まりこさんざえもん)(丸子城主、昌幸、後に信之の家臣)

横谷幸重(よこやゆきしげ)(雁ヶ沢要害、忍者・昌幸、後に信之の家臣)

横谷信氏(よこやのぶうじ)(信繁の家臣)

堀田興重(ほったおきしげ)(信繁の家臣)

高梨内記(たかなしないき)(信繁の家臣)

横谷庄八郎重(よこやしょうはちろう)(信繁の家臣、真田十勇士 猿飛佐助のモデル)

 

なお、信繁の家臣として有名な真田十勇士(さなだじゅゆうし)は、伝承上の架空の人物です。

 

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ガンバレ徳川

 

 

昌幸以降の真田家

日本史01 煙を吐く工場

 

関が原で東軍につき上田藩を立藩した信之は、徳川幕府からは譜代格として扱われます。大坂の陣では徳川方として、豊臣方に入った信繁(幸村)と戦うことになります。その後1622年に上田から信濃松代藩に13万石転封となります。

 

沼田領3万石は独立していましたが1680年に改易となり、真田家は10万石の大名として明治維新まで生き残りました。現在の真田家当主は、工学者の幸俊(ゆきとし)氏です。

 

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戦国時代ライターSoyokazeの独り言

soyokaze(ライター)

 

真田氏は幸隆の時代は武田信玄の家臣として活躍し、その子たちも武田騎馬隊を構成する一因でした。長篠の合戦で本来家督を継ぐ予定のなかった昌幸になり、信長、秀吉時代を生き抜きました。

 

関ケ原の合戦で、長男信之と次男信繁と別れながら、家の存亡を図り、信之がそのまま藩主となりましたが、命が助けられた信繁は、大坂城で家康あと一歩まで追い詰めた活躍を見せつつも、最後は散っていきました。

 

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はじめての明治時代

 

 

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旧石器から現代史、日本、中国、西洋とどの歴史にも興味があります。小学生のころから歴史に興味があり、歴史上の偉人伝を呼んだり、NHKの大河ドラマを見たりして歴史に興味を持ちます。日本のあらゆる歴史に興味を持ち、旧石器や縄文・神話の時代から戦後の日本までどの時代も対応可能。また中国の通史を一通り読み西洋や東南アジア、南米に至るまで世界の歴史に興味があります。最近は、行く機会の多いもののまだあまり知られていない東南アジア諸国の歴史にはまっています。勝者が歴史を書くので、歴史上悪役とされた敗者・人物は本当は悪者では無いと言ったところに興味を持っています。
【好きな歴史人物】
蘇我入鹿、明智光秀、石田三成、柳沢吉保、田沼意次(一般的に悪役になっている人たち)、溥儀、陳国峻(ベトナムの将軍)、タークシン(タイの大王)

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