NHK大河ドラマ「どうする家康」に登場した三河一向一揆の拠点本證寺。そこはただの寺ではなく周囲を濠に囲まれ、矢倉が建てられた城塞になっていました。
このような形式の都市を寺内町と呼び、戦国時代には主に浄土真宗の寺に出現しています。今回は戦国時代に登場した寺内町について解説します。
この記事の目次
排他的で一神教の浄土真宗で寺内町が発展
寺内町は中世後期から近世前期の日本で浄土真宗により建設された仏教寺院や道場(御坊)を中心に形成された自治集落です。阿弥陀仏のみを信仰し他の仏教宗派や世俗の権力に対しても排他的だった浄土真宗は、外から武力攻撃を受ける事も多く、その過程で信徒を寺院の内側に住まわせ周囲を濠や土塁で囲んで守れる防御的な性格を帯びた寺内町が発展します。
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安全な寺内町には商工業者も移住し繁栄
武力で自分達の生活圏を守れるようになった寺内町の内部では外からの干渉を排し安全で活発な商取引が可能になったので信者ばかりではなく商工業者も進んで移住し、経済の中心地として繁栄するようにもなります。また、よく似た言葉として門前町がありますが、あれは基本寺の境外に形成されるので寺の内側にある寺内町とは異なります。
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寺内町の内部構成
寺内町を形成したのは、浄土真宗ばかりではなく、禅宗や法華宗、日蓮宗など様々な宗派に及びます。寺内町の多くは砦のような環濠で囲われ、寺院のような宗教施設や坊主のような宗教関係者の居住エリア、信者の町屋敷などで構成されています。
特に寺内町としては規模が大きい吉崎御坊や山科本願寺、大坂本願寺は戦国大名の城下町と類似点が多く、特に山科本願寺は日本初の城塞都市と評価されています。
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戦国大名からも独立した国だった寺内町
このような外の地域からの権力を寄せ付けない構造を持つ寺内町は戦国大名のような領主から裁判権を意味する検断権を獲得。政治は住民の自治で運営され、領主から座特権の公認や、公事、徳政、国質、所質などの免税措置を獲得、住民の年貢負担も低率で抑えられていました。戦国大名の権力が及ばない寺内町は多くの免税や治外法権により、各地から罪を犯した犯罪者や商工業に従事する事業者が集まって、経済的な繁栄を謳歌する事になります。
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寺内町は強力な戦国大名に敵視される
しかし、戦国時代も後期になって織田信長や徳川家康のように、広範囲を支配する強力な戦国大名が登場すると多くの特権を獲得し、大名の命令に容易に服さない寺内町は攻撃の対象となり、徳川家康に討伐された三河三ヶ寺や信長と10年に及ぶ石山合戦を通じて和睦した大坂本願寺のように、寺内町を明け渡し軍門に降るケースも増えていきました。
戦国を生き延びた寺内町も、江戸時代に入ると徳川幕府や各藩の支配下に入り、以前のような検断権を失い免税特権も取り上げられ、自由な自治都市の性質を失っていきます。
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日本史ライターkawausoの独り言
寺内町は排他的で他の仏教宗派に対して攻撃的だった浄土真宗が敵からの襲撃に備える為に寺の外に濠を巡らし、内部に信者を住まわせて独立した生活を営む為に誕生しました。寺内町は防衛力と各種の特権に守られ、城塞のような機能を備え繁栄を謳歌しますが、織田信長や徳川家康のような天下統一を意識する戦国大名が出てくると嫌われて攻撃され、次第に特権を奪われ、自由都市の性質を失っていくのです。
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