不入の権とは?家康と対立した三河一向宗を豊かにした権利【どうする家康】


 

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家臣にどうする?と迫れられる徳川家康

 

NHK大河ドラマどうする家康の7話では、家康と三河一向一揆との対立が描かれました。ドラマでも家康は三河一向一揆勢力の財力に脅威を抱きますが、その財力の一翼を担ったのが戦国大名からの税の徴収を拒める不入の権でした。しかし、この不入の権(ふにゅうのけん)はどうやって成立したのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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不入の権はどうして認められた?

馬にのり凱旋する将軍モブ(兵士)

 

不入の権とは、荘園のような特定のエリアに守護大名や守護大名の家来が踏み込む事が出来ない権利です。この権利は荘園主が室町幕府に献金する等の働きかけで取得できました。そのため、より詳しくは守護使不入権(しゅごしふにゅうけん)と呼びます。

 

守護不入権は、元々、領国における権利を拡大した守護の年貢の収奪に対し荘園側の防衛策として生まれたものでしたが、年貢を拒否できるようになった荘園は大きな経済力を持つようになり、武装して実力で守護大名の介入を阻止するようになりました。

 

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三河一向宗の不入の権は松平広忠が認めた

松平広忠

 

時代が下り、室町幕府が無力になると各地の守護大名は独立傾向を強めて戦国大名化し、領国に対する管理を強化しました。しかし戦国大名の力を持ってしても財力を蓄えた一向宗のような勢力と事を構えるのは簡単ではなく、その勢力を利用するために戦国大名として不入の権を認める事もありました。

 

三河では、本證寺(ほんしょうじ)上宮寺(じょうぐうじ)勝鬘寺(しょうまんじ)が本願寺教団の拠点で三河三ヶ寺(みかわさんかでら)と呼称されて勢力を振るっていて、家康の父の松平広忠は権力が不安定だったので、教団との衝突を恐れ、三河の本願寺教団に不入の権を認めていたのです。

 

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戦費調達で家康が不入の権を破り一揆が勃発

ヘタレすぎる徳川家康

 

桶狭間の戦いの後、今川から独立した松平家康はその後も今川氏真との抗争を繰り返していましたが、あまり資金がないので戦線は膠着(こうちゃく)しました。その中で家康は自分に一銭も税金を支払わず不入の権を盾にホクホク栄えている三河三ヶ寺に対し憤り、独断で不入の権を破って強引に税金を徴収します。それに対し三河三ヶ寺は激怒、本證寺第十代空誓は、三河国内の本願寺門徒に檄を飛ばして家康との全面戦争に入ったのです。

 

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なんで一向一揆に三河武士まで従ったのか?

徳川家康にスパルタすぎる石川数正

 

三河一向一揆が家康に敵対したのは分かりますが、その一向宗に対し家康の家臣が敵対するのではなく、次々と寝返ったのは何故でしょうか?

 

実は、これは話が逆で、家康を見限って本願寺についた本多正信、蜂屋貞次、夏目吉信、石川康正(石川数正の父)は、松平の家来になる前から本願寺門徒でした。家康の出身母体である安祥松平氏は勢力を拡大していく中で、本願寺門徒を部下に取り込んだのであり、彼らが松平氏への忠義と信仰心の間で揺らぎ、家康を裏切るのは無理からぬ事ではあったのです。

 

本多正信

 

 

家康は三河一向一揆を平定すると本願寺勢力の寺社に対しては改宗など厳しい措置を取りましたが、信仰心と忠誠心の板挟みになった三河武士に対しては寛大な処置を取り、本多正信や渡辺守綱が家康に帰参しています。

 

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家康は最初から本願寺勢力殲滅を狙った?

どうする家康 正面ver

 

家康の一方的な不入の権の無視により始まった三河一向一揆ですが、家康は戦費捻出の苦しさから不入の権を無視したのではなく、最初から本願寺勢力の殲滅を狙っていたようです。

燃える本能寺(モブ)

 

三河を統一した後は、今川、織田、武田、北条のような戦国大名と競わねばならない家康にとって領国の三河が本願寺勢力の地盤である事は極めて不都合でした。税収の問題だけではなく、自分のコントロールに従わない本願寺勢力はどこかで駆逐する必要があったのです。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

kawauso

 

今回は家康と敵対した本願寺一向一揆の引き金となった不入の権について解説しました。元々は横暴な守護大名の年貢収奪を阻止する為に荘園側が室町幕府に働きかけて成立した不入の権ですが、その特権を背景に荘園が富を蓄えて武装し自力で特権を維持できるようになって、戦国大名にとっては脅威になっていました。家康は天下を統一するだけはあり、そのような既得権益集団は早期に潰すべきと考えて三河一向一揆を戦い、これを殲滅したのです。

 

 

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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