加藤清正は文官だった!ギャップありすぎ戦国大名の真実

18/05/2021


日本史02 加藤清正

 

加藤清正(かとうきよまさ)と言えば、賤ケ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)の1人であり、朝鮮征伐の虎退治の逸話など秀吉(ひでよし)に仕える子飼いの猛将というイメージが強いかと思います。

 

しかし、清正の武勇エピソードの大半は江戸時代の創作であり実際の清正は行政官僚としての側面がより強い人でした。関ケ原(せきがはら)では東軍の家康(いえやす)についてしまい、豊臣ファンには評判の悪い清正ですが、その生涯はどのようなものだったのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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加藤清正、熊本城主までの軌跡

名古屋城

 

加藤清正は、永禄(えいろく)5年(1562年)刀鍛冶(かたなかじ)加藤清忠(かとうきよただ)と母伊都(いと)の子として尾張中村(おわりなかむら)に誕生しました。幼名を夜叉丸(やしゃまる)、後に虎之助と名乗りました。しかし、父清忠は夜叉丸が3歳の頃に死去。加藤家は困窮しますが伊都は勉強熱心な女性で貧困の中、清正を寺に預けて学問させたりしています。

 

元亀(げんき)4年(1573年)伊都は長浜城主になった羽柴秀吉(はしばひでよし)の母なかの下を訪れて、子の清正を秀吉に仕官させ小姓として仕えさせます。なかと伊都は従姉妹か遠縁の関係にあったようで、秀吉に取り清正は貴重な血の繋がりがある子飼いの家臣でした。

 

天正(てんしょう)4年(1576年)清正は元服、加藤虎之助清正と名を改め秀吉の中国遠征に従軍。天正10年(1582年)4月14日、中国攻略中の秀吉が冠山城(かんむりやまじょう)を攻めた時、清正は城に一番乗りし竹井将監(たけいしょうげん)という武将を討ち取りました。

 

本能寺の変で「是非に及ばず」と切り替えの早い織田信長a

 

清正は、本能寺(ほんのうじ)の変後山崎(やまざき)の戦いにも参加。天正11年(1583年)の賤ケ岳の戦いでは、敵将山路正国(やまじまさくに)を討ち取る武功を挙げ、賤ケ岳七本槍として併せて3000石の所領を与えられます。

 

天正13年7月、秀吉が関白に就任すると清正は従五位下・主計頭に叙任されます。翌年からは秀吉の九州平定に従い、肥後国領主となった佐々成政(さっさなりまさ)が失政で改易されると、これに代わって肥後北半国195000石を与えられ隈本城に入り、天正19年頃より城を改修しはじめました。

 

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実は行政官僚だった加藤清正

宋銭 お金と紙幣

 

加藤清正は、賤ケ岳の戦い以降の小牧(こまき)長久手(ながくて)、四国征伐、九州征伐に参加していますが、そのほとんどが秀吉の旗本か後方支援の役割でした。例えば、小牧・長久手の戦いの陣立書には加藤清正の動員兵力はわずか150名しかいません。

 

水滸伝って何? 書類や本

 

「清正記」などの伝記にはいくつもの武功に関する記載と秀吉からの感状が引用されているものの、それらは全て創作であるようです。当時の清正に秀吉が期待したのは、豊臣政権の財務官僚としての役割であり、清正が叙任された主計頭も税金を管理する役職でした。

 

清正の主な仕事は豊臣の直轄地の税収を管理し、改易された大名の領地を後任の大名が決まるまで預かり運営するなどの地味な裏方仕事だったのです。秀吉が佐々成政が失敗した肥後統治に清正を派遣したのも、清正が長年代官を勤め、九州平定、肥後国人一揆(ひごこくじんいっき)後に上使として派遣され現地事情に通じている理由が大きいようです。

 

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はじめての戦国時代

 

朝鮮出兵で三成と行長に陥れられる

鍋島直茂

 

加藤清正が肥後で熊本城を築城している最中、豊臣秀吉は朝鮮出兵を決意。清正は二番隊として出陣し初めて1万人規模の兵力を率いる大将となり鍋島直茂(なべしまなおしげ)相良頼房(さがらよりふさ)を配下に加え、各地を転戦します。加藤清正は、手堅い仕事ぶりで秀吉に信頼され、明との和平交渉の伝達役も任されていましたが、これが清正の運命を変えました。

 

明国制圧の野望を抱く豊臣秀吉

 

朝鮮での戦いが膠着し明王朝と和平を考えるようになった秀吉ですが、秀吉の和睦条件は余りに日本に都合よく明王朝が飲まない事は確実だったのです。しかし、真面目な清正は秀吉の言った通りの条件を携えて明と交渉しようとしました。

 

戦国時代の密談

 

これに、一刻も早い和平を望む一番隊を率いる小西行長(こにしゆきなが)が危機を感じ、清正を交渉役から外そうと日本本土にいる石田三成(いしだみつなり)と結託。清正の讒言(ざんげん)を秀吉に吹きこんだのです。秀吉は激怒して清正を交渉役から下ろし帰国させた上に謹慎処分を命じました。

 

その後、増田長盛(ましたながもり)は清正と石田三成を仲直りさせようとしたそうですが、清正は丁重に断りました。真面目に仕事をしているのに陥れられて面目を潰した清正は、三成と行長を激しく憎悪するようになったのです。

 

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小西行長に殺されかける清正

鉄甲船

 

加藤清正は後に秀吉に赦され、慶長(けいちょう)(えき)では左軍の総大将になった小西行長に対し右軍の総大将になり、再び朝鮮半島に上陸を開始します。

 

李舜臣

 

この時、左軍の行長はわざと清正隊の上陸ポイントを明・朝鮮連合軍に漏らし、清正を戦死させようとしますが、情報を罠と考えた李舜臣(りしゅんしん)は攻撃せず、清正は命拾いする事になります。平然と清正を亡き者にしようとする行長の行動を見ると清正vs行長・三成の関係修復は不可能でした。

 

清正は慶長の役でも未完成な蔚山倭城(うるさんじょう)に僅か500名の手勢で籠城し、明・朝鮮連合軍を10日も食い止めるなど活躍し、朝鮮の民衆から鬼上官の異名で恐れられています。

 

豊臣秀吉が亡くなり悲しむ石田三成

 

しかし、清正の奮戦も空し慶長3年(1598年)遠征軍を残したまま秀吉が伏見城で62年の生涯を閉じ、清正等日本軍は帰国の途に就きます。

 

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三成憎しで徳川家康に接近

徳川家康vs石田三成(関ヶ原の戦い)

 

帰国した清正は数年間の百姓の夫役(ぶやく)を停止するなど領国立て直し策を打ち出します。同時に朝鮮出兵時から続けていた投機的な取引により米や大豆、麦などの農産物を売買し、少しでも財政難を解消する事に努めました。

 

しかし、現実問題として清正と三成・行長の対立の溝はより深くなり、清正は徳川家康の養女を継室に迎える等したので九州の豊臣方大名に疎まれました。そこで、清正は熊本城の築城などに全力を傾注しないといけなくなり民政は後回しになりますが熊本城は天下の名城になっていきます。

 

長い槍が得意な前田利家

 

慶長4年(1599年)三成が頼みにした前田利家(まえだとしいえ)が死去すると、清正は福島正則(ふくしままさのり)浅野幸長(あさのよしなが)ら七将の1人として石田三成暗殺未遂事件を起こしました。これにより清正は、増々家康に接近していく事になるのです。

 

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関ケ原の合戦に参加できなかった理由

野望を持ち始めた徳川家康

 

しかし、清正と家康の関係はずっと良好だったわけではありません。島津氏の重臣である伊集院氏が起こした庄内(しょうない)の乱において清正は反乱を起こした伊集院忠真(いじゅういんただざね)を支援していた事が発覚したのです。

 

庄内の乱は家康が五大老として事態の収拾を図っており、清正の態度は家康からみると、許し難い背信行為でした。また、家康の会津征伐にも清正は反対しており、激怒した家康は清正の上洛を禁じ有馬則頼(ありまのりより)に清正が上方に動いたら阻止するように命じます。

 

毛利輝元

 

家康は清正が西軍に就く事も想定しており、毛利輝元(もうりてるもと)は清正に調略を仕掛け寝返りを誘っていました。清正は家康の許しが得られず関ケ原合戦には参戦していませんが、どうしても石田三成と同じ空気は吸いたくないらしく、家康に懇願し大坂にいた家臣を会津征伐に従軍させる事を許されました。

 

その後、石田三成の挙兵を知った家康は、今は少しでも味方が欲しいと清正を許し謹慎を解きます。

 

黒田官兵衛

 

これを受けて清正は黒田如水(くろだじょすい)と共に出陣、小西行長の宇土城、立花宗茂(たちばなむねしげ)の柳川城などを開城し、その後も九州の西軍方の大名を次々に撃破します。そして、関ケ原の戦い終結後の論功行賞で清正は小西行長の旧領肥後南半国を与えられ、52万石の大大名となりました。

 

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関ケ原後清正の功績

戦国時代の武家屋敷a

 

関ケ原を乗り越えた清正は徳川の天下の下でようやく領国経営に集中できるようになりますが、関ケ原では西軍についていた島津氏の動向に備える必要がありました。

 

そこで清正が実行したのが、菊池川、白川、緑川、球磨川の四大河川の治水工事とそれに伴う新田開発でした。清正は佐々成政の旧臣で治水の名人である大木兼能(おおきかねよし)を3000石で登用し、川普請奉行に任命すると、複数の川が入り組んで何度も大水害を起こす熊本の大治水工事を開始したのです。

 

清正は工事を丸投げするのではなく、事前に川の上流と下流の領民に聞き取り調査をして、水利について把握する事を忘れませんでした。この官僚出身らしいマメな調査が、治水工事を成功に導いたのです。清正は河川の水路変更や、35にも及ぶ堰の建設、三角州の埋め立てによる干拓事業を行い、52万石だった石高は10万石以上も増加し、慶長13年(1608年)の段階で70万石を突破したそうです。

 

また、清正は土木工事で領民に無料働きをさせず賃金についてルールを制定し、男女ともに同じ量の米を与えたので工事人夫はよく集まり、工事は順調に進みました。

 

清正の尽力で熊本は九州有数の穀倉地帯(こくそうちたい)に生まれ変わり、人々は清正を清正公(せいしょうこう)さんと呼んで讃えたのです。

 

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戦国時代ライターkawausoの一言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

石田三成や小西行長憎さに、秀吉死後は徳川家康に接近した加藤清正ですが、豊臣家への忠誠は絶えず、江戸幕府の開府後に各地で豊臣家の蔵入地が解体されても、熊本では維持され、毎年3万石が大坂城の秀頼に向けて送られていたそうです。

 

朝鮮征伐では戦況悪化から、やむなく領民を酷使した清正ですが普段は領民に優しく、支払った賃金以上の仕事は決してやらせないなど、ホワイト企業家の側面もありました。朝鮮征伐さえなければ、少なくとも清正が三成と仲違いする事なく、その後の関ケ原の戦いも違った結果になったかも知れませんね。

 

参考文献:戦国武将の土木工事 彩図社

 

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