「あるていど安定していた組織で、突然の理由でリーダーが退陣してしまった時、どうすべきか?」
現代でもじゅうぶんに起こりえる事態ですよね。こういうとき、普段から「ポスト〇〇」などと呼ばれ、リーダーの後継者としてなんとなく期待されていた人は、どう振る舞うべきなのでしょうか?
ガツガツと自分を後継者として打ち出すべきなのでしょうか?
それとも周囲から自然に推薦の声が高まるのを、辛抱強く待つべきでしょうか?
とりわけ日本の文化では、
「前リーダーの不運に便乗した」と陰口をたたかれる人は長続きしない傾向があり、難しい駆け引きが必要なようです。
そんな駆け引きについて、戦国時代の北九州に見事な実例があります。本日の記事で取り上げる、鍋島直茂の生涯です!
この記事の目次
前任者は強力なリーダーシップを発揮していた龍造寺隆信!
鍋島直茂という人物は、最初は戦国大名ではなく、肥前国(現在の佐賀県)の戦国大名、龍造寺隆信の家臣にすぎませんでした。この龍造寺隆信という人物、タダモノではありませんでした。
肥前の一国人にしかすぎない身分から次第に勢力を拡大し、自身一代のうちに肥前国の完全掌握に成功します。のみならず、隣国の大友家の所領も少しずつ脅かし始め、九州北部の覇権、もしかすると九州の覇権すら、狙える勢いを得ていました。
この龍造寺隆信、「軍事においては果敢な即断が大事!じっと作戦を考えるよりスピードを持って動くべし!」という積極的攻撃主義を信条としていたようです。
龍造寺家の運命が一気に暗黒化した「沖田畷の戦い」
ところが、最終的にはその信条がアダとなりました。
「沖田畷の戦い」という合戦にて、島津軍と決戦をした際、うかつにも自身の率いる本隊が身動きの取りにくい湿地帯に飛び込んでしまい二万五千という大軍を擁していたにも関わらず、あっけなく、大将の隆信自身が早々に討ち取られてしまったのです。
年齢的にもまだ老人というわけではなく、むしろこれからますます勢力を拡大する気運であった隆信が突然戦死したことは、龍造寺家中に大混乱をもたらしました。スジからいえば、ここで隆信の血を引く家門から後継者が現れるべきですが、この時の龍造寺家には、後継者にふさわしい人材が育っておりませんでした。
こういうとき、必然的に、人々は「普段からいちばん頼れる人」の周りに集まるものです。生前の龍造寺隆信には、まさに「片腕」ともいえる優秀なサブリーダーが常に付き添っておりました。
それが鍋島直茂です。軍事についても領国経営についても的確に隆信をサポートし、龍造寺家が他国に攻められてピンチの時に、直茂の考えた作戦を採用したことで助かったことすら、何度もありました。隆信の急死を受けて、龍造寺家の武将たちは自然に直茂に相談を持ち掛けるようになります。たちまち直茂は龍造寺家の遺児たちをさしおいて、「事実上のリーダー」状態になります。
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実績を積み、周囲からの推薦が上がるのと、秀吉の耳に評判が届くのを待っていた直茂!
この鍋島直茂が、いかにも日本流のリーダーとして「できている」と思えるのは、本人は決して、「オレが龍造寺隆信の後を継いでリーダーになる!」という態度をとらなかったことです。
むしろ、「沖田畷の戦い」の際には、
「隆信様が討ち取られた今、自分も生きて帰るわけにはいかない!ここで死ぬ!」と騒ぎ、周囲からそれを制止されて、「しぶしぶ」撤退し、以後、大将を失った組織の再建に着手した、とされています。
その後も龍造寺家では、
「どうも直茂様がいないと、だいじなことは決められない」と、重要な会議にはいつも直茂が呼ばれ、直茂の意見で物事が決まったそうです。この場合も、直茂は「私はあくまで龍造寺家の武将の一人だから」と謙遜しつつ、「しぶしぶ」みんなに指示を出していたフシがあります。
そんな直茂に、一大転機をもたらしたのが、天下人たる「豊臣秀吉」でした。九州の島津征伐に乗り出した際、秀吉はそこで鍋島直茂を知ったらしく、「北九州には鍋島という、たいへんな逸材がおるそうじゃ!」と周囲にも楽しげに話すほど、直茂を気に入ったようです。
晴れて「鍋島藩」の誕生!事実上の下克上だがどこからも文句なし!
龍造寺家の遺児たちは頼りにならず、鍋島直茂が、事実上、肥前国を指導している。龍造寺家の武将たちからの評価もきわめて高い。
それを聞いた秀吉は、直茂を近畿に呼び寄せて、
「お前こそが肥前国の大名として、みんなを率いていくべきだろう!」と推薦します。
このときも直茂は「しぶしぶ」謙遜した態度で秀吉の推薦を受けたようですが、結局、国元でも「直茂様がよい!」という意見が多く、主家の龍造寺家を差し置いて、鍋島家が肥前の大名として正式に認められることになります。その後、鍋島直茂は徳川時代にも生き残り、いわゆる「鍋島藩」の開祖となったのでした。
形としては、主家の乗っ取りをしてしまったわけなのですが、このやり方で(龍造寺家の遺族をのぞいては)誰からも文句がでない「リーダー交替」を果たしたのでした。
まとめ:日本では直茂流の後継者が好まれる!ただし直茂にはひとつだけ気になる点が
直茂の謙遜さは、現代にも参考になるのではないでしょうか?
ただし、この記事を執筆するために、参考資料として『初期の鍋島佐賀藩』(田中耕作/佐賀新聞)を読んでいたところ、ひとつ、気になる記述を見つけました。
「沖田畷の戦い」について、龍造寺隆信が率いる本隊は、「うっかりと湿地帯に入ってしまった」と説明しました。
ところが前掲の書によると、「沖田畷の戦い」の直前に、ナゾの陣地替え命令が発動され、龍造寺隆信の部隊と、鍋島直茂の部隊が、「場所を交換した」そうなのです。
ほのぼの日本史ライターYASHIROの独り言
これも直茂自身は「急な陣地替えはリスクがあるけど」と、「しぶしぶ」始めたことらしいのですが。結果として、直茂隊と陣地を交換した隆信の本隊が、湿地帯という最悪の地形に飛び込んでしまったのでした。
いったいこれは、何を示すのでしょう?
読者の皆様の考察にゆだねます!
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