多羅尾光俊は近江国甲賀信楽庄の国人領主です。本能寺の変後に落ち武者狩りの脅威にさらされた徳川家康を全力で補佐し、三河に帰還させる功績を立てました。家康を救った事が前面に出る多羅尾光俊ですが、その人生も家康に劣らず波乱万丈だったのです。
この記事の目次
近江国甲賀信楽郡の小領主として誕生
多羅尾光俊は1514年に近江国甲賀郡信楽庄小川の小領主多羅尾光吉の子として誕生します。
多羅尾氏は元々南近江守護六角氏に仕えていましたが、六角義賢が織田信長の上洛軍に負けて城を放棄すると六角氏を切り織田家に仕えます。光俊は信長に忠実に使え1581年の天正伊賀の乱にも甲賀衆を率いて参戦したようです。
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本能寺の変で逃げ遅れた家康を全力で助ける
本能寺の変が起きた時、信長の盟友徳川家康は和泉国堺を遊覧していましたが、信長横死の報告を受けると三河に還る事を決意します。この時、家康を案内していたのは織田家重臣、長谷川秀一でしたが、彼は多羅尾光俊の五男、山口藤左衛門光広と親しく、今後の事を相談するために家康一行を光広の屋敷に案内しました。
光広は秀一の訪問を快く迎え入れ、同時に父、光俊に事態を報告。光俊は嫡男の光太と共に家康の元に急行して拝謁。その後で信楽の根拠地に家康一行を迎え入れます。家康が三河まで還る為に難儀をしている事を知った光俊は、息子である光太、光雅、光広の3名に従者五十人、さらに甲賀忍者百五十人をつけて家康を護衛、険しい伊賀路を案内し、伊勢白子浜まで家康一行を無事に送り届けました。
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奇襲で浅野長政の軍勢を撃退する
その後、多羅尾光俊は柴田勝家や神戸信孝、滝川一益の側につき、羽柴秀吉と敵対します。羽柴秀吉は主力の柴田勝家が大雪で越前から出られないチャンスをついて、伊勢の一益と岐阜の信孝を叩こうと考え大軍を近江国草津に進め、配下の浅野長政に山城国から信楽、伊賀に出て柘植から加太越えをして一益の亀山城を攻めるように命じます。
浅野長政軍に対し信楽を領有する多羅尾光俊が立ち塞がり、四男光量が守る別所城に攻め寄せた浅野軍を夜襲で撃退しました。敗れた浅野長政は光俊に和睦を申し入れ、一人娘(養女とも)を光俊の三男、光定に与える事で停戦します。
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豊臣秀吉の配下として8万石の大名へ
羽柴秀吉が賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破り、小牧長久手の戦いで織田信雄と徳川家康連合軍と和睦して配下に加えると、光俊は秀吉に従うようになり信楽を本拠地に近江、甲賀、山城、大和に八万石を領有する大名に昇進します。
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関白秀次に孫娘を与え関係強化
秀吉が天下を獲ると、秀吉の養子、豊臣秀次が近江四十三万石を領有し近江八幡に城を築きます。秀次は領主として近江各地を回りますが、その時、信楽の多羅尾城にも立ち寄りました。多羅尾氏は一族を挙げて歓待しますが、秀次は光俊の嫡男である光太の娘、万に一目ぼれし側室にしたいと申し入れます。光俊と光太は万を秀次に差し出し、秀次との関係強化に成功しました。
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豊臣秀次が秀吉に処分され多羅尾氏も没落
しかし、秀吉は淀殿との間に息子秀頼が誕生すると、一転して甥の秀次を疎んじるようになり、1595年7月に秀次を高野山に追放。高野山で秀次が自害すると謀反の疑いありとして、秀次の一族をことごとく処刑するように命じます。多羅尾光太の娘、万も例外なく処刑され、そればかりか多羅尾氏は秀次と縁続きという理由で改易となり8万石を失いました。
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家康に拾われ信楽七千石を回復
栄光から一転して悲惨な境遇に落ちた光俊ですが、1598年に秀吉が死ぬと再び転機が訪れます。徳川家康が豊臣政権下で五大老となり、過去に伊賀越えで命を助けてくれた多羅尾氏のその後を調べ、落ちぶれている様子を見て驚き当座の手当として二百人扶持を与えて旗本に取り立てたのです。
さらに徳川に仕えた多羅尾光太は家康の上杉景勝討伐に随行し、その後の関ケ原の戦いにも参陣、褒美として代々の領地であった信楽七千石を与えられました。多羅尾光俊は1609年に死去しますが、光太はその後も多羅尾一族を率いて大坂冬の陣と夏の陣に参加。徳川幕藩体制の中で多羅尾氏の地位を確立しました。
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日本史ライターkawausoの独り言
多羅尾光俊は近江国甲賀郡信楽七千石の小領主から出発しますが、僅か1代でこれを11倍の8万石にまで急成長させました。しかし、秀吉の甥の秀次との縁組が仇になり、築き上げた8万石は没収、一族は極貧生活に叩き落とされます。しかし、本能寺の変後に徳川家康を救っていた事がプラスに働き、徳川政権下で旧領七千石を回復したのです。多羅尾光俊は「情は人の為ならず」を図らずも実践してしまった人と言えるでしょう。
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