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大坂城を最初に築いたのは織田信長だった!?

16/05/2021


名古屋城

 

大阪城を築いた人物と言えば、豊臣秀吉(とよとみひでよし)ですよね?

 

信長とマブタチな破天荒すぎる近衛前久

 

現在でも大坂のシンボルの1つであり、大阪府民には太閤さんの城として有名です。でも、実は最初に大坂に城を築いたのは、織田信長(おだのぶなが)だったってご存知ですか?

 

今回は、大坂に城を築こうとした織田信長の意図について解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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大坂本願寺とは?

上町台地

 

現在、大坂城が建っている場所には、戦国時代には大坂本願寺の根拠地がありました。元々、大坂は本願寺蓮如(れんにょ)が年に何度か布教にきていた場所であり、明応(めいおう)5年(1496年)9月に坊舎の建設が開始されていました。

 

建設は堺の町衆、摂津、河内、和泉、北陸の門徒の援助を受けつつ、翌年には完成したようですが、当時の本拠地は京都山科本願寺であり大坂本願寺はメインではありません。

 

細川政元

 

その後、蓮如の後継者実如(じつにょ)が、明応の政変で細川政元(ほそかわまさもと)の依頼を受け、門徒の反対を押し切って参戦、以後本願寺は武装化し武士勢力との抗争が始まりました。

 

享禄(きょうろく)5年(1532年)5月、河内の飯盛山に立て籠もった木沢長政が主筋の畠山義堯(はたけやまよしたか)三好元長(みよしもとなが)筒井氏(つついし)の連合軍に包囲を受けます。

 

ここで、本願寺証如は細川晴元(ほそかわはるもと)からの救援要請に応じ、大坂御坊より門徒2万人を率いて参戦。翌月には連合軍を退散させた上に、三好元長を堺まで追い回し自害に追いやりました。

 

三国志のモブ 反乱

 

勢いづいた門徒の数は10万人に膨れ上がり、解散せずに大和まで乱入、救援を要請した細川晴元は一転して弾圧に転じ、法華一揆や近江守護六角定頼(ろっかくさだより)が3~4万の軍勢で本拠地の山科本願寺を包囲し、寺内町共々焼き払ってしまいます。

 

炎上する城a(モブ)

 

この頃、本願寺証如(しょうにょ)は大坂にいましたが、山科に拠点を置こうとはせず、そのまま大坂本願寺に山科から持ち出した仏像などを移転しました。こうして、天文(てんぶん)2年(1533年)大坂本願寺は教団の本拠地となります。

 

もちろん、焼き討ちを受けた経験から、大坂本願寺は周囲に堀や土塁を築き柵を巡らした要塞へと変貌していました。

 

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織田信長の引き渡し命令を拒否し戦争に

石山合戦 織田信長、本願寺顕如

 

大坂本願寺の台地下は淀川の本流が流れる天然の要害で、同時に淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあり、本願寺教団の勢力拡大により全国の富が集まる場所になります。

 

しかし、これに目をつけたのが織田信長でした。信長は永禄(えいろく)11年(1568年)に大坂本願寺に矢銭五千貫を要求したのを皮切りに要求をエスカレートさせ、元亀(げんき)元年(1570年)正月には、石山本願寺の明け渡しを要求。

 

資金が豊富な織田信長

 

当然、本願寺顕如(けんにょ)は到底受け入れられないと要求を撥ねつけ、全国の門徒に「大坂本願寺を防衛する為に武器を取って集まれ」と指示を出したのです。

 

本願寺顕如

 

ここから石山合戦(いしやまかっせん)が始まり、その後11年もの間、両者は激しい戦いを繰り広げる事になりました。石山合戦は、信長が大坂本願寺を欲しがった事から始まったのです。

 

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織田信長スペシャル

 

兵糧攻めで大坂本願寺陥落

鉄甲船

 

大坂本願寺の建つ台地の下は広大な湿地帯であり、軍隊が長期間包囲をするのは不向きでした。そこで、信長は力攻めを諦めて、陸上を封鎖し大坂本願寺の兵糧攻めに入ります。

 

すると本願寺顕如は外交ルートを駆使、足利義昭(あしかがよしあき)の仲介を得て毛利水軍(もうりすいぐん)雑賀衆(さいかしゅう)の協力で木津川からの補給を計画し、阻止しようとした織田方の九鬼水軍(くきすいぐん)を壊滅させます。こうして、信長の兵糧攻めは一度頓挫しました。

 

ちょっとしたことでブチ切れる織田信長

 

しかし、信長はリベンジに燃え、六隻の鉄甲船を建造。九鬼水軍は木津川の河口を鉄甲船で遮断して毛利水軍を撃破します。これにより木津川を遡上する補給は不可能になり、大坂本願寺は兵糧不足に苦しめられる事になりました。

 

幕末70-8_天皇(シルエット)

 

このような経緯から天正(てんしょう)8年(1580年)には正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅命で、織田信長と本願寺顕如の和睦が成立し、顕如は大坂本願寺を退却。その後、大坂本願寺は放火により二日一夜燃え続けたと伝えられます。

 

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織田信長、大坂城の築城を開始

oda-nobunaga-Tenkafubu(天下布武を唱える織田信長)

 

「信長公記」によると信長はこの立地を高く評価していた記述があります。西国への備えにもなり、毛利攻略を考えていた信長にとっては重要な場所でした。

 

丹羽長秀

 

そして、意図的な放火で焼け野原にした跡地にさらに大きな城を築く予定だったのです。大坂本願寺の跡地は、織田信長の命令で丹羽長秀(にわながひで)に預けられますが、長秀は、小牧山城、岐阜城、安土城を建設した名築城家でした。

 

織田信長から信頼を受ける丹羽長秀

 

丹羽長秀の築城は、一時的な野戦布陣ではなく、「千貫矢倉(せんがんやぐら)」などの建物もあり、一軍が長期間駐屯できるほどの設備が構築されていたと推測されます。

 

清須会議に参加する池田恒興 柴丹羽長秀、羽柴秀吉、柴田勝家

 

しかし、城が完成する前に本能寺(ほんのうじ)の変が勃発、大坂は清須会議(きよすかいぎ)で一度は池田恒興(いけだつねおき)に与えられるものの、その後すぐに美濃に鞍替えになり、光秀(みつひで)を討った功労者である羽柴秀吉(はしばひでよし)が領有し、間もなく大阪城を築城する事になりました。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

本願寺と11年間も戦争してまで、大坂本願寺を欲しがった織田信長。そして、信長の見通しが正しかった事は、この地に豊臣秀吉が大坂城を築城した事で完全に証明されました。

 

もし、本能寺の変が無ければ大坂城の主は織田信長だったでしょうし、信長も尾張の信長ではなく、大坂の信長になっていたかも知れませんね。

 

参考文献:お金の流れで見る戦国時代  kadokawa

 

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はじめての戦国時代

 

 

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カワウソ編集長

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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