乱妨取りとは?雑兵の略奪は何故生まれ消えていったのか?

06/09/2020


三国志のモブ 反乱

 

乱妨取(らんぼうど)りとは乱取りとも言い、合戦後に勝者になった雑兵たちにより行われた略奪行為で、金品から米や麦のような食糧、人間まで奪い取りました。

 

現代の視点から見ると、なんと戦国時代の人間は野蛮人だろうと眉を(ひそ)めるかも知れませんが、それだけでは本当に乱妨取りを理解した事にはならないのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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生きる為の乱妨取り

馬にのり凱旋する将軍モブ

 

戦国大名は何のために戦うのか?その答えは様々でしょう。上洛して天下を獲ろうと考えた大名もいたでしょうし、自分の領地を守りながら勢力拡大を図りたいという人物もいた筈です。しかし、それは英雄的な目線からの考え方であり、大名の手下として働く雑兵には別の戦う理由がありました。

Luis-Frois(ルイス・フロイス 宣教師)

 

戦国時代にイエズス会から派遣された宣教師のルイス・フロイスは著書の「日本史」において日本で合戦が行われる理由を以下のように書いています。

 

book-Suikoden(水滸伝-書類)

 

我等においては、土地や都市や村落、およびその富を奪う為に戦いがおこなわれる。

日本での戦は、ほとんどいつも、小麦や米や大麦を奪うためのものである。

 

戦国大名に領土拡張や天下統一の目的があったように、雑兵には食べる為という切実な動機が存在していました。彼らは嫌々合戦に参加したのではなく、深刻な飢えを逃れる為、家族を食べさせる為、合戦の機会を心待ちにしていたのです。

 

戦国時代は、相次ぐ疫病や天災と同時に商業の発達によって富の偏在が起きた時代であり、合戦はこうして偏在した富を暴力的に再分配する手段でもありました。

 

食う為に出稼ぎ遠征した上杉の雑兵

八甲田雪中行軍遭難事件

 

越後の龍として知られる上杉謙信の領地である越後は、戦国時代には二毛作が出来ない地域だったようです。そのため、年が明けて春になり畠の作物が獲れる夏までを端境期(はざかいき)と言い、毎年のように食料不足に悩まされていました。

 

そこで、上杉軍は領国として安定し食糧が豊富だった関東平野に定期的に出兵し、食料と戦利品を奪い凱旋するのを繰り返していたようです。

上杉謙信

 

上杉軍の遠征パターンは、晩秋に出兵して年末に帰る冬型と、晩秋に出兵して越年し春か、夏に帰る(長期越冬型)がありましたが、いずれも端境期であり兵士が領国を出る事で、口減らしになり食糧が確保でき、関東遠征で食料や人間の略奪が期待できる一石二鳥を狙ったものでした。つまり、戦国の上杉軍の関東遠征は「出稼(でかせ)ぎ」であったわけです。

 

上杉謙信特集

 

乱妨取りを防ぐ術

Ikko-Ikko( 一向一揆)

 

もちろん、生きる為に雑兵たちが乱妨取りに精を出したと言っても、奪われる村や都市にだって余裕があるわけではなく、黙って奪われはしませんでした。農民たちは(そう)という互助組織を結成して一揆と言う掟を結び、指導者を決めて、自ら武装し雑兵と戦う事さえあったのです。

 

また、乱妨取りを回避する為、中世には、普段から食糧や家財の一部を山間の村や寺社に預けておく習慣もあったようです。そして、農民が逃げる場所としては、土地の領主の城や聖域として俗世間の介入が拒否された寺社、また農民が独自に備えた「山上がり」や「小屋上がり」のような防御施設がありました。

 

戦国時代の武家屋敷b

 

山上がりや小屋上がりは、土地の権力者に断りなく設置すると敵対行為としてマークされましたが、対価として金銭や兵糧を贈れば許可されたそうです。他には制札(せいさつ)と言い、あらかじめ、攻め込んでくる戦国大名に金品を贈り乱妨取りを禁止してくれるように頼む方法もありました。雑兵がやってきても、制札が村の入り口に出されると、その大名に属する雑兵の場合は手出しが出来なかったのです。

 

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雑兵は公共事業と銀山開発に吸収される

にぎわう市(楽市・楽座)

 

では、戦国時代一杯吹き荒れた雑兵の乱妨取りはどうして消滅していったのでしょうか?

 

最も大きな理由は、豊臣秀吉の天下統一と朝鮮出兵の敗北でした。秀吉の朝鮮出兵自体が、天下統一により仕事にあぶれた何百万人という雑兵と雑兵予備軍に仕事を与える一面がありましたが、朝鮮出兵も失敗した結果、秀吉は大規模公共工事と最盛期を迎えた銀山採掘に雑兵を吸収しました。こうする事で飯が食えない雑兵に収入を与え、社会不安を抑えようとしたのです。

 

亀甲船(朝鮮水軍)

 

しかし、大規模公共事業は江戸や大坂のような都市に集中したので、多くの失業者が都市に集まり、ここでも職にあぶれた雑兵が、合戦の感覚で都市で強盗等をするなど、治安が悪化したそうです。

 

豊臣政権の後を受けた徳川政権も、敢えて豊臣家をしばらく潰さずに浪人を養わせたり、大坂の陣後は、豊臣方の兵士に早期に赦免を出して、各地の大名がそれらの浪人を召し抱えるのを助けています。

 

名古屋城

 

しかし、戦国の気風は、関ケ原の合戦や大坂の陣を経ても簡単には収まらずに、慶安4年(1651年)由比正雪(ゆいしょうせつ)の乱が鎮圧された後に、やっと下火になります。この頃には、戦国を経験した荒々しい雑兵がほとんど死に絶えていたんでしょうね。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso

 

乱妨取りは社会に大きな弊害(へいがい)を残しています。それは、戦利品として捕らえられた人々の人身売買でした。当時、人間は価値のある資産であり、定期的に奴隷市(どれいしょうにん)が立ち沢山の人々が奴隷として売られました。

 

中にはポルトガルの奴隷商人に日本の人買いを介して売られ、欧州にまで売り飛ばされた人までいたそうです。食べていく為になされる事は、それが悪事であっても問題が解消されるまで止む事はない。乱妨取りは、現代の私達にその事を突きつけているような気がします。

 

参考文献: 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り

 

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はじめての戦国時代

 

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