時代劇でお決まりのシーンは、時の権力者から「お前は市中引き回しのうえ打ち首じゃ!」と命じられて、ガーンと真っ青になる武将という構図。
「せめて名誉のある切腹をさせてください!」などと泣きつく武将を、
「だめじゃ!貴様には恥をさらしたうえで死んでもらう!」と足蹴にする権力者。
惨めな恰好で市中をさらされ、悔し涙にくれながら、首を斬られる武将、という図。そんな典型的な場面、よくありますよね。
ところが、「せっかくなら、私にめちゃくちゃ目立つハデな服を着せて、市中引き回しの上、豪快に打ち首しちゃってください」と自らお願いをした戦国武将がいたとしたら、どうでしょうか?
その武将というのが、戦国時代の快男児、佐久間盛政です。
この記事の目次
一時は金沢の領主!順調に出世をした佐久間盛政の前半生!
佐久間盛政とは、どのような戦国武将だったのでしょうか?
出生としては、織田家の古参の武将。尾張国から覇道を駆け上がる織田信長の家臣団の中で、戦場に生き、出世した人物です。特に北陸方面の征服事業で、多大な功績をあげた勇将です。功績を認められて、一時期はなんと金沢の領主にまで出世しています。
戦国時代に詳しい方なら、ここでピンときたのではないでしょうか?
「織田家の家臣で、北陸方面で活躍していたということは、派閥でいえば柴田勝家のグループなのでは?」と。
まさにその通りです!そして本能寺の変で信長が急死した後、北陸方面の武将たちは、
「これまで通り、北陸方面の指揮官である柴田勝家に従うべきか、それとも新興の秀吉にさっさと鞍替えをすべきか」の決断を迫られましたが、佐久間盛政もまさにその究極選択を迫られました。
この権力闘争では、結局、柴田勝家の盟友だったはずの前田利家があっけなく秀吉に鞍替えし、孤立した柴田勝家は敗死の運命を辿ることになります。結果としては柴田勝家を裏切った者たちがその後の歴史では成功者になったわけですが、この記事の主人公である佐久間盛政には、いかんともしがたい事情がありました。実は佐久間盛政は、柴田勝家とは親戚関係にある武将だったのです。
どうせ負ける柴田側についてしまったのなら、ハデな死に方をしたい?佐久間盛政の「逆転の発想」!
もちろんこれは戦国時代の話なので、親戚を裏切ることも「生き残るためならば仕方ない」という風潮はあったはずです。佐久間盛政にも、柴田勝家の影響下から鞍替えし、飛ぶ鳥を落とす勢いの秀吉に寄り添うという手は残っていたはずです。
ですが、まさに戦場で育った快男児というキャリアの佐久間盛政。
いかに柴田側に落ち目の気配が満ちてきても、最後まで柴田勝家を裏切ることはありませんでした。むしろ柴田勢の先鋒として、対秀吉戦線で獅子奮迅の働きを見せたのです。一説には、この佐久間盛政があまりにも無理に突出してしまったために、柴田軍の敗因をつくったなどという話もあります。
ですがこれは、勝った側の秀吉方のほうに出てくる記述。
佐久間盛政が死んだ後に、勝った側が「あれはアタマのよわいイノシシ武者だった」という単純なイメージを割り当てようという悪意も感じられ、いまいち信用できません。
少なくとも、勝った側の記録にも、「凄まじい勢いで攻めてきた勇将」として名前は残ってしまうほど、インパクトのある戦い方をしていたのは確かなようです。
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「市中引き回しにしてください。しかもせっかくなら、ハデな服装をさせてください」
けっきょくは奮戦もむなしく、柴田勢は滅び、佐久間盛政も捕らえられてしまいます。ここで、さすがは「人たらしの名人」秀吉。連れてこられた佐久間盛政を見て、これほどの勇将を殺すのは惜しくなったのでしょうか、
「お前はこのままわしの家来にならないか?」と持ち掛けたようです。
秀吉の行動パターンからみて、おそらく本気で佐久間盛政を気に入っていた可能性が高く、ウラのない良い話であったと推測できます。
ところが、そこでの盛政の反応がふるっていました。
「お前に仕えるなどとんでもない。さっさと処刑をしろ。それも、市中引き回しの上、打ち首にしてくれ」と。
驚いた秀吉が、
「それでよいのか?そんな死に方をさせるにはしのびない、なにか、わしがしてやれることはないか?」と気を使うと、
「それなら、市中引き回しの際には、できるだけハデな服装をさせてくれ」と言い返したそうです。
秀吉はそれを受け入れ、盛政は紅白のハデな服装で京を引き回された上、斬首されました。一説には、秀吉は最後まで盛政に気を使い、切腹のための懐刀を持たせてやっていたのですが、盛政はそれも頑固に使わず、罪人としての斬首を堂々と受け入れたそうです。
まとめ:家族を生き永らえさせるためだったとすれば天才的な発想!
「こうして、佐久間盛政とその家族はみんな死に絶えました」と、普通はなるところですが、実はここからが面白い展開となります。盛政の家族はちりぢりになりましたが、一部は関東の北条家のところに逃げ込み、最後まで「反秀吉」の闘争に加わることになります。ところが驚くべきことに、その北条家が滅んだあと、秀吉はこれら佐久間家の者たちに目をかけ、家名を復興させてやっているのです。
戦国時代ライター YASHIROの独り言
これはどういうことなのでしょうか?
おそらく、「ハデでさわやかな快男児」を好む秀吉の心に、よほど盛政のみごとな死に方はとても良い印象を与えていた、ということではないでしょうか。佐久間盛政が、最初から家族を次の時代に生き永らえさせるためと計算して、わざと秀吉の印象に強く残る死に方を選んだのかは、わかりません。
ただ結果として、佐久間盛政は家名存続に成功したのですから、どこまでが計算だったのかはともかく、結果としては彼の「残酷に殺してください」と言い放つ不敵な態度は、家族を守るための天才的な「逆転の発想」だったといえるのではないでしょうか?
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