関ケ原は天下分け目の合戦ではなかった!【日本史新説】

15/03/2021


軍旗

 

関ケ原(せきがはら)の戦いと言えば、西暦1600年と覚えやすい上に、徳川家康の天下への第一歩として教科書的にはよく知られています。しかし、最近の新説では、関ケ原の戦いは豊臣(とよとみ)vs徳川(とくがわ)の天下分け目の戦いではなく、豊臣政権内の内部抗争であり、徳川の天下とは直接関係ないと考えられているようです。

 

では、最新の学説による関ケ原の戦いとはなんなのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


五大老と五奉行は豊臣政権で対等ではない

軍議

 

戦国の映画やドラマでは、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は遺言として五大老、徳川家康(とくがわいえやす)前田利家(まえだとしいえ)毛利輝元(もうりてるもと)上杉景勝(うえすぎかげかつ)宇喜多秀家(うきたひでいえ)に豊臣政権を委ね、五奉行と協議して政治を進めるように遺言されたように説明されます。

 

しかし、これは歴史的に誤りであり、五大老とは秀頼(ひでより)の後見人として秀頼を補佐する政治参与の位置づけで、実際の政権は五奉行、浅野長政(あさのながまさ)石田三成(いしだみつなり)増田長盛(ましたながもり)長束正家(なつかまさいえ)前田玄以(まえだげんい)に委ねられていました。

 

秀吉亡き後、野望を持ち始めた徳川家康

 

豊臣の政治に五大老は口を出す権限は無かったのですが、家康は次第に権限を逸脱。豊臣政権の首班として振る舞うようになり、それに反発した石田三成派と家康派の軋轢が激しくなります。

 

小早川秀秋が裏切りブチ切れる石田三成

 

つまり、関ケ原の戦いは家康vs三成ではなく、家康が率いる豊臣政権Aチームと石田三成のBチームが激突した壮大な内ゲバだと考えられるのです。

 

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会津討伐は三成ホイホイではない?

伊賀越えを敢行した徳川家康

 

会津征伐は徳川家康が石田三成を反徳川で挙兵させる為に仕組んだ罠と説明されます。しかし現在では、会津征伐は反徳川の筆頭、上杉景勝を潰すと同時に大坂で豊臣方の勢力に包囲されていた家康が、本拠地の江戸に戻る為の布石であるとも考えられているようです。

 

石田三成

 

石田三成もこの頃、七将襲撃事件の責任を取り佐和山城に隠遁していて領国の経営に専念し、大谷吉継(おおたによしつぐ)真田昌幸(さなだまさゆき)に反徳川で挙兵するよう根回ししていました。

 

家康も自分の遠征中に三成が叛くとは予想していましたが、それは三成や大谷吉継のような小規模の反乱に留まると考えていたようです。会津討伐は狡猾な家康が仕組んだ三成ホイホイではなく、自分に盾突く上杉景勝潰しと豊臣政権の磁場から離れる緊急避難の役割が大きかったと考えられます。

 

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三国同盟を潰したあの男

 

小山評定は創作である

軍議

 

会津討伐の最中、石田三成や大谷吉継が反徳川で挙兵した事を聞いた家康は、小山で評定を開き、大坂方に人質を取られている豊臣恩顧(おんこ)の武将に、三成が挙兵した事実を告げ、家康と三成、どちらにつくか決めるように促したとされます。

 

この、いわゆる小山評定では、徳川家康を慕う福島正則(ふくしままさのり)が大坂方に人質が殺されても家康に味方すると熱弁をふるい、その勢いで大勢は反三成で決定しました。

 

book-Suikoden(水滸伝-書類)

 

ところが、この小山評定、一次資料ではその存在を確認できるものがなく、近年では創作であるとする意見が強くなっています。

 

小早川秀秋

 

実際は三成が挙兵しても呼応するのは大谷吉継くらいだろうと高をくくっていた家康が、豊臣方の重鎮、宇喜多秀家と小早川秀秋(こばやかわひであき)が三成に呼応して家康の本拠地伏見城を攻めたと聞いて仰天し、その事実が豊臣恩顧の大名に知られる前に、急いで畿内に引き返し、反徳川勢力を潰そうとしたのが真実であるようです。

 

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五大老のほとんどが家康の敵に

名古屋城

 

急いで畿内に戻る家康軍に、五大老の1人、毛利輝元が大坂方の総大将として大坂城に入ったという最悪のニュースがもたらされます。これにより公卿に準じる清華成と呼ばれた五大老、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝の3名が反徳川で一致。家康は大坂では賊軍になる可能性が濃厚になりました。

 

西遊記巻物 書物_書類

 

関ケ原の頃、全国の諸大名に出した家康の書状は120通にもなり、家康が少しでも味方を増やそうと悪戦苦闘していた事実を裏付けます。徳川家康は石田三成以外にも嫌われ、関ケ原の前に負ける可能性も浮上していたのです。

 

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なんとなく決着した関ケ原

6時間で決着がついた関ヶ原の戦い 石田三成

 

窮地に立っていた家康軍ですが、配下の福島正則や池田輝政(いけだてるまさ)のような実戦部隊が豊臣正規軍として岐阜城を瞬く間に攻め落とすと形勢が大きく変わります。この時点で、大阪城の秀頼が石田三成側を豊臣正規軍と認め自ら出馬していれば、豊臣恩顧の大名は弓を引けずに、徳川方が敗れていた可能性もありますが、外様の毛利輝元では、大坂城の勢力の世論統一が出来ませんでした。

 

どうも石田三成は、追い詰められた家康が短期決戦に出るとは考えておらず、長期戦を考えて呑気に構えており、大坂方を一枚岩にする準備を怠っていた模様です。

 

慶長(けいちょう)5年(1600年)9月15日、豊臣の旗を掲げる東西両軍が関ケ原で激突しました。20万の大軍が戦った天下分け目の関ケ原ですが、実際には毛利勢や島津勢のように様子見していた勢力も多いので、本当に戦闘に参加した兵力はもっと少ないでしょう。

 

徳川家康vs石田三成(関ヶ原の戦い)

 

必死の家康と今になって慌てた三成以外は、東軍も西軍も、自分達が天下分け目の決戦をしているとは夢にも思わず、それが日和見に繋がったと考えられます。やる気があるのは一部だけという奇妙な戦いは、天下への執念に燃える家康の東軍が勝利して半日で終了しました。

 

参考:新説の日本史 (SB新書) 新書 – 2021/2/6
亀田俊和 (著)/ 河内春人 (著),/矢部健太郎 (著),/高尾善希 (著), /町田明広 (著), /舟橋正真 (著)/

 

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豊臣の家臣として関ケ原の戦後処理した家康

天下を収めた徳川家康

 

関ケ原で勝利した家康は論功行賞で三成についた大名の領地を容赦なく改易・減封します。そして、その領地を徳川一門と自分に味方した豊臣恩顧の大名に振り分けました。しかし、表向きは、あくまでも豊臣秀頼を立て、自分は秀頼を騙してクーデターを起こそうとした三成と、そのシンパを討ったのだという体裁を取りました。

 

例えば家康は石田三成や安国寺恵瓊(あんこくじえけい)のような反乱の首謀者は処刑しましたが、毛利輝元や上杉景勝、宇喜多秀家は処刑せずに改易減封、流刑処分に留めています。

 

これは、この3名が清華成(せいがけ)と呼ばれた大名公卿であるため、同列の清華成である家康が処刑を憚ったと考えられ、家康があくまで豊臣社会の秩序に沿っていた証拠であると考えられます。

 

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戦国時代ライターkawausoの一言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

関ケ原に勝利した家康は大坂城に入り、あくまでも五大老の顔で戦後処理をしその後は大阪城を出て伏見城に入ります。この頃までには、徳川一門の勢力は800万石にもなり、徳川方についた大名も大半で急いで江戸に戻る必要もなくなりました。

 

家康は、畿内で征夷大将軍への布石を打ち続け、京都二条城で将軍宣下を受けて徳川幕府を開いたのです。

 

結局家康は豊臣家を滅ぼさず、かなりなし崩し的に幕府を開いている事が分かります。この曖昧模糊(あいまいもこ)とした慎重な対応こそ、家康の開府の頃にはまだ多くの豊臣シンパが残り、徳川の天下は公認されたわけではなかった証拠ではないでしょうか?

 

関ケ原の戦いは、これ以降、徳川様の天下と当時の社会が認める程、画期的な出来事ではなかったのです。

 

参考:新説の日本史 (SB新書) 新書 (2021/2/6)

亀田俊和 (著)/ 河内春人 (著),/矢部健太郎 (著),/高尾善希 (著), /町田明広 (著), /舟橋正真 (著)/

 

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はじめての戦国時代

 

 

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