宇喜多秀家は、謀聖として知られる梟雄宇喜多直家の次男です。しかし、抜け目のない悪辣な父、直家と違い、秀家は苦労知らずで育ったボンボンで、秀吉に寵愛を受けた事で豊臣一門として扱われ、20代にして57万石の領地と五大老の地位を得ます。ところが、関ケ原で西軍に与した事で運命は暗転、前半生とは真逆の長く辛い後半生を送る事になります。今回は宇喜多秀家の人生を解説します。
この記事の目次
謀聖宇喜多直家の子として誕生した宇喜多秀家
宇喜多秀家は元亀3年(1572年)、備前岡山城主で謀聖として名高い宇喜多直家の次男として誕生します。通称は八郎だったようです。しかし、秀家9歳の時、父・直家が病死、織田信長に家督相続を許されます。直家が死ぬと宇喜多軍は信長の命令で羽柴秀吉の中国遠征軍に組み込まれ備中高松城攻めに協力します。ただし、秀家は10歳と幼少のため、叔父である宇喜多忠家が代理として軍の指揮をとり、また、宇喜多三老と呼ばれる戸川秀安や長船貞親、岡利勝ら直家以来の重臣たちが秀家を補佐しました。大体のケースでは一代で成り上がった戦国大名は代替わりで内紛に直面しますが、宇喜多直家は身内には信じられた人であったようです。
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毛利への備えとして大大名になる宇喜多秀家
秀家11歳のとき、本能寺の変で信長が死去、このため秀吉は毛利攻めどころではなくなり、信長の死を隠したまま毛利輝元と和睦します。宇喜多秀家は毛利に対する防波堤として、備中東部から美作・備前を領有する57万石の大名になります。
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豊臣秀吉に寵愛される宇喜多秀家
謀聖として、多くのライバルを毒と計略で葬った父の宇喜多直家と違い、秀家はおっとりしたプリンスだったようです。元服すると豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ秀家と名乗ります。秀家は秀吉の寵愛を受け、その猶子となり前田利家の娘で秀吉の養女となった豪姫を正室とします。このため、秀家は外様ですが秀吉の一門衆としての扱いを受けました。以後、秀家は小牧長久手の戦い、紀州征伐、四国攻め、九州征伐、小田原攻めと秀吉の遠征には全て従い忠実な家臣であり続けます。
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文禄・朝鮮の役で活躍した宇喜多秀家
文禄の役では、秀家は大将として出陣。漢城を攻略して京畿道の平定に当たり、翌年1月、李如松率いる明軍が迫ると碧蹄館の戦いで小早川隆景らとこれを撃破し6月には晋州城攻略を果たします。この功績で文禄3年(1597年)参議から従三位、権中納言に昇叙しました。慶長2年(1597年)の慶長の役でも、秀家は毛利秀元とともに監軍として再渡海、左軍の指揮をとって南原城を攻略し、続けて全羅道、忠清道を席巻し、南岸に戻って順天倭城の築城にあたりました。
秀吉は秀家を高く評価し、明を征服した後は、秀家を日本か朝鮮の関白にしようとしていたようです。しかし、奮戦した秀家は宇喜多氏の財政を大きく傾け、それを重税で補おうとしてお家騒動のタネをまいてしまいます。慶長の役の途中、秀吉は健康を害し、秀家を五大老につけると病死しました。秀家以外の五大老はいずれも若くても40歳を過ぎた中堅でしたが、秀家は20代と若く異彩を放っています。
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宇喜多騒動
秀吉没後の慶長4年、宇喜多氏の重臣だった戸川達安と岡貞綱らが、秀家の側近の中村次郎兵衛の処分を秀家に迫ります。秀家はこれを拒否し、中村は前田家に逃れて戸川らが大坂の屋敷を占拠する宇喜多騒動が発生します。秀家は、騒動の首謀者を戸川達安とし暗殺を図りますが、秀家と対立していた従兄弟の宇喜多詮家は達安をかばい、大坂玉造の自邸へ籠城。両者は一触即発の事態となります。
自力で騒動を治められない秀家に対し、当初、大谷吉継と榊原康政が調停を請け負いますが、事態は動かず、大谷吉継は手を引き、康政は任期が過ぎても国に帰れず、政務が滞る事態になりました。徳川家康は康政を叱責し自ら問題を処断。戸川達安は、他家預かり蟄居処分を受け、花房正成は宇喜多家を出奔します。この騒動で戸川・岡・花房などの宇喜多三老が宇喜多氏を抜け、宇喜多家の衰退につながりました。事件の背景には成人し、宇喜多三老の権力を制限して自身と自身のお気に入りの側近の権力を強化したい秀家と三老の思惑が衝突したと考えられます。
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武闘派七将の襲撃から石田三成を救う
秀吉の死の翌年、豊臣秀頼の後見役だった義父の前田利家が死去すると、豊臣家内で武断派の加藤清正や福島正則らと、文治派の石田三成、小西行長らとの派閥抗争が表面化します。宇喜多秀家と親しかった石田三成は、武断派の襲撃に遭い、辛うじて秀家や、佐竹義宣の協力で窮地を逃れ、徳川家康と高台院の仲裁で居城の佐和山城に蟄居します。こうして、以前から豊臣の武断派を取り込んでいた徳川家康が豊臣政権下における影響力を強めることになります。
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関ケ原で副大将となり敗北した宇喜多秀家
慶長5年、家康が会津の上杉景勝征伐のため出兵しているチャンスを突き、石田三成は毛利輝元を総大将とし家康打倒のために挙兵。この時、秀家は西軍の副大将として、石田三成や大谷吉継等と、家康断罪の檄文を発し西軍の主力になります。その後、伏見城の戦いでは総大将として参加し家康の重臣鳥居元忠を攻略。その後西軍本隊と別れて伊勢国長島城を攻撃した後で、美濃国大垣城に入城し本隊と合流しました。関ヶ原の戦いでは、西軍主力として17000人を指揮して戦い、東軍の福島正則隊と戦闘を繰り広げますが、正午過ぎに同じ豊臣一門である小早川秀秋が東軍に寝返り形成は逆転、西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅します。
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薩摩まで落ち延びる宇喜多秀家
敗戦後、秀家は自決を潔しとせず伊吹山中に逃げ込みます。このとき、落ち武者狩りの矢野五右衛門に遭遇し万事休すと思われましたが、五右衛門は秀家を自宅に約40日もかくまったとする話があります。その後、秀家は京の太秦に潜伏、そこで京都所司代の奥平信昌に発見されるも逃走に成功。同じ西軍側の島津義弘を頼って薩摩に落ちのび、牛根郷にかくまわれました。しかし、ほどなく島津氏が秀家を匿っているという噂が広まったので、慶長8年には家康に身柄を引き渡されました。死刑もやむなしの状況でしたが、島津忠恒や縁戚の前田利長や豪姫の生母、芳春院の懇願で死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉され、慶長11年4月、八丈島へ流罪となりました。ここから秀家の半世紀にも及ぶ島流し生活が始まります。
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流人になった秀家は不自由だが極貧ではない島の暮らし
流人になった事を恥じた秀家は、八丈島では苗字を浮田、号を久福と改めます。絶海の島での暮らしは極貧の極みのように感じますが、実際は妻の実家である加賀前田氏や宇喜多旧臣の花房正成らの援助を受け、隔年に70俵の米の仕送りがあり、不自由で厳しい暮らしながら飢えに苦しむ事はなかったそうです。また、関白豊臣家に連なる高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたと伝わります。その後、秀家は赦免され、前田家より10万石で分家して大名としてやり直さないかと打診を受けた事もあるそうですが断わり、流人として侘しい八丈島生活に耐え、明暦元年(1655年)11月20日84歳で死去しました。その頃、日本は4代将軍家綱の治世になっていて、秀家は関ケ原の戦いを知る最後の人物として生涯を閉じたのです。
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戦国時代ライターkawausoの独り言
豊臣秀吉に寵愛され、20代の若さで豊臣一門として57万石の領地と五大老の地位を得た宇喜多秀家。しかし、秀吉没後は若さゆえに身の処し方を誤り、最後は流人として八丈島で84年の長寿を全うします。しかし、苦労知らずのプリンスで人が善い事が幸いしてか、命を取られる事はなく、それなりに充実した人生を送ったのは、彼の人徳なのかも知れません。
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