関ケ原は天下分け目の合戦ではなかった!【日本史新説】

15/03/2021





豊臣の家臣として関ケ原の戦後処理した家康

天下を収めた徳川家康

 

関ケ原で勝利した家康は論功行賞で三成についた大名の領地を容赦なく改易・減封します。そして、その領地を徳川一門と自分に味方した豊臣恩顧の大名に振り分けました。しかし、表向きは、あくまでも豊臣秀頼を立て、自分は秀頼を騙してクーデターを起こそうとした三成と、そのシンパを討ったのだという体裁を取りました。

 

例えば家康は石田三成や安国寺恵瓊(あんこくじえけい)のような反乱の首謀者は処刑しましたが、毛利輝元や上杉景勝、宇喜多秀家は処刑せずに改易減封、流刑処分に留めています。

 

これは、この3名が清華成(せいがけ)と呼ばれた大名公卿であるため、同列の清華成である家康が処刑を憚ったと考えられ、家康があくまで豊臣社会の秩序に沿っていた証拠であると考えられます。

 

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戦国時代ライターkawausoの一言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

関ケ原に勝利した家康は大坂城に入り、あくまでも五大老の顔で戦後処理をしその後は大阪城を出て伏見城に入ります。この頃までには、徳川一門の勢力は800万石にもなり、徳川方についた大名も大半で急いで江戸に戻る必要もなくなりました。

 

家康は、畿内で征夷大将軍への布石を打ち続け、京都二条城で将軍宣下を受けて徳川幕府を開いたのです。

 

結局家康は豊臣家を滅ぼさず、かなりなし崩し的に幕府を開いている事が分かります。この曖昧模糊(あいまいもこ)とした慎重な対応こそ、家康の開府の頃にはまだ多くの豊臣シンパが残り、徳川の天下は公認されたわけではなかった証拠ではないでしょうか?

 

関ケ原の戦いは、これ以降、徳川様の天下と当時の社会が認める程、画期的な出来事ではなかったのです。

 

参考文献:新説の日本史 SB新書

 

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はじめての戦国時代

 

 

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カワウソ編集長

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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