今回のほのぼの日本史は、江戸幕府を開いた徳川家康のルーツに迫ります。家康は元々松平氏でしたが、その松平氏は十八もの分家に分かれました。今回は家康のルートをたどり、十八松平について、そしてその祖である松平氏親を解説します。
また家康が松平から徳川を名乗った理由についても触れていきましょう。
この記事の目次
十八松平とは?
十八松平とは、徳川家康を生み出した松平氏の一族の総称です。家康が徳川を名乗るまでは松平で、それは大元の先祖から数えると十八もの家に分かれたと言うものです。
十八のカウント方法もいろいろあり、家康以降の徳川宗家を加える場合もあれば、家康の祖父、松平清康までの分家に限定する考え方があり、意見が分かれます。さらに余談ですが、本当に18もの分家があるのではなく、松平の「松」の字を分解すると「十八公」になるという考え方。これは中国の慣習から着想されたものですが、こういう説もあるほどです。
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松平氏の先祖松平親氏
では十八もの分家を作ったとされる松平氏の起源を探ると、複雑ですがおおよそ初代は松平親氏とされます。そしてそのさらに先祖を見るとふたつの氏が出て来ました。ひとつは清和源氏の流れを汲む新田氏から分かれた世良田氏で、もうひとつは同じく新田系統の得川氏です。
ふたつの氏がある理由。それは最初平安末期の武将に源義国と言う人がいました。彼は八幡太郎・義家の子で、足利氏と新田氏の祖と言われている人物です。その子の義重は、上野国新田郡の開拓事業に携わって新田荘を立ち上げました。こうして新田氏を名乗ります。
その義重の四男義季が、父より新田郡内にある、世良田郷と得川郷を任されました。その際に義季が、世良田氏と得川氏のどちらを名乗ったかについて、現在でも論争があります。そのため義季の子供たちの氏には資料により、世良田と得川の両方が存在しているためより複雑になっています。
いずれにせよその子孫の中に、後に松平を名乗る親氏が誕生します。ちなみに後になり、松平清康が世良田氏の後裔を名乗るようになりました。
孫の家康もそれに習い、三河守任官を働きかけるときに出自を語りますが、正親町天皇に「世良田源氏の三河守任官は前例が無い」と断られてしまいました。そこで家康は、今度は得川氏の末裔(世良田氏だけど、これは源氏から藤原氏の支流に分かれたということにして)なので、家康は松平から徳川と改姓。藤原氏の本性変更と共に、ようやく三河守に叙任されました。
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松平氏の初代親氏と三河の国松平郷の領主・信重
松平親氏は南北朝から室町時代の初期にかけて三河の地にいた武将。生誕は不明ですが、没年も1361年から1467年まで書物により幅広く、はっきりわかっていません。親氏は当初得川(世良田)親氏でした。得川(世良田)義季から数えて、9世孫にあたります。
その生涯を見ると父の有親とともに関東での戦いに敗れ、追手から逃れるために、時宗の総本山清浄光寺に逃げ込んで僧になりました。その後諸国を流浪。三河国加茂郡松平郷に来ました。
ここで在来の領主・松平信重と出会います。信重の出自は不明で、賀茂氏もしくは在原氏の末裔との説があります。ここで客人としていた親氏でしたが、和歌に通じた教養と武勇が優れていたので、信重は次女の婿として親氏を養子に迎え入れました。
こうして親氏が松平氏の祖と言われています。不思議なことに養父信重は、松平氏の祖先とは一般的にカウントされていません。その理由として信重の先祖が不詳だったことと、親氏が世良田もしくは得川の出身。つまり新田源氏につながることで、清康や家康が利用したことが考えられます。
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徳川宗家は安祥松平家の系統だった
松平親氏を祖として十八もの支族に分かれた松平家。それでは後に征夷大将軍として江戸幕府を開いた家康は、どの松平家の一族かを確認すると、安祥松平家になります。
系図を見ると親氏の子・泰親が二代目を継ぎます。彼にはふたりの兄弟がいました。
ひとりめの広親は酒井氏を名乗ります。この子孫が酒井忠次などを出し、徳川家の最古参の譜代大名となります。そしてもうひとり信広は、養父信重の松平郷を継ぎました。
泰親の子、3代信光以降は代々分家が誕生し、松平の支流が増えていきます。そして信光の時代に戦国時代に突入。
岡崎城を手に入れ、安祥に進出して西三河を支配しました。その信光の三男親忠が安祥松平家初代で、松平宗家の4代目になります。しかし当初は分家扱いという説があります。しかしそれから長親、信忠と続き、家康の祖父で7代目清康の時代に、一気に三河の戦国大名として頭角を現しました。
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江戸時代まで存続した十四松平
十八松平のうち、後に徳川宗家となる安祥松平家以外で江戸時代にまで存続したのは、14家あります。以下がその一覧です。
- 竹谷松平家(三代信光の長男守家が初代、拠点は現在の蒲郡市竹谷町)
- 形原松平家(三代信光の四男与副が初代、拠点は現在の蒲郡市形原町)
- 大草松平家(三代信光の五男光重が初代、拠点は現在の額田郡幸田町)
- 五井松平家(三代信光の七男忠景が初代、拠点は現在の蒲郡市五井町)
- 深溝松平家(五井松平忠景の次男忠定が初代、拠点は現在の額田郡幸田町深溝)
- 能見松平家(三代信光の八男光親が初代、拠点は現在の岡崎市能見町)
- 長沢松平家(三代信光の十一男親則が初代、拠点は現在の豊川市長沢町)
- 大給松平家(四代親忠の次男乗元が初代、拠点は現在の豊田市大内町)
- 滝脇松平家(四代親忠の九男乗清が初代、拠点は現在の豊田市滝脇町)
- 福釜松平家(五代長親の次男親盛が初代、拠点は現在の安城市福釜町)
- 桜井松平家(五代長親の三男信定が初代、拠点は現在の安城市桜井町)
- 東条(青野)松平家(五代長親の四男義春が初代、拠点は二代忠茂までは現在の岡崎市上青野で、三代家忠から西尾市吉良町)
- 藤井松平家(五代長親の五男利長が初代、拠点は現在の安城市藤井町)
- 三木松平家(六代信忠の次男信孝が初代、別名合歓木松平家 拠点は現在の岡崎市上三ツ木町)
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断絶した家系・例外的な松平家
十八松平のうち江戸時代の前に断絶した松平家が3家あります
- 岩津松平家(四代親忠の長男親長が初代、拠点は現在の岡崎市岩津町)
- 西福釜松平家 (四代親忠の七男親光が初代、拠点は現在の豊田市鴛鴨町)
- 鵜殿松平家(六代信忠の三男康孝が初代)
また、十八松平家にはカウントされない例外的な松平家があります。
- 宮石松平家(大給松平家の分家で、乗元の三男乗次が初代)
- 久松松平家(徳川家康の生母・伝通院が後妻として久松氏に入って生まれた、家康の異父弟の康元、康俊、定勝を初代とする一族)
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江戸十八松平とは?
家康が天下を取り幕府を開いてからの江戸時代、本来の十八松平とは違う意味で江戸十八松平と称されるものが登場しました。これは徳川将軍家が、特定の大名に対して公的な文章に『松平』の姓を称号として許した家を指します。これは本来の松平氏とは血縁のない大名たちが、将軍家の出自である松平の称号を特別に使えるというステータスのようなものです。
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江戸十八松平の一覧
1.譜代大名(8家)
①奥平松平家 - 家康の外孫の奥平家で、武蔵忍藩主、播磨姫路新田藩主など
②松井松平家 - 松井家で、 武蔵川越藩主。
③戸田松平家 - 戸田家で、信濃松本藩主。
④久松松平家 - 家康の異父弟たちの久松家で、伊予松山藩主、伊勢桑名藩主など
⑤鷹司松平家 - 公家・摂関家の鷹司家の支流。紀州徳川家御連枝一門で、上野吉井藩主。
⑥本庄松平家 - 5代将軍綱吉の母桂昌院の甥・松平資俊が始祖。丹後宮津藩主、越前高森藩主。
⑦越智松平家 - 6代将軍徳川家宣弟の松平清武が始祖。野国館林藩のち石見浜田藩主。
⑧松平美濃守家 - 綱吉の寵愛を受けた柳沢吉保の一族。大和郡山藩主。
2.外様大名(10家)
①松平加賀守家 - 前田家、加賀藩主。
②松平陸奥守家 - 伊達家、陸奥仙台藩主。
③松平薩摩守家 - 島津家、薩摩藩主。
④松平長門守家 - 毛利家、長州藩主。
⑤松平官兵衛(筑前守・甲斐守)家 - 黒田家、筑前福岡藩主。
⑥松平安芸守家 - 浅野家、安芸広島藩主。
⑦松平肥前守家 - 鍋島家、肥前佐賀藩主。
⑧松平因幡守家、松平備前守家 - 池田家。鳥取藩主、岡山藩主。
⑨松平阿波守家 - 蜂須賀家、阿波徳島藩主。
⑩松平土佐守家 - 山内家。土佐藩主。
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戦国時代ライターSoyokazeの独り言
十八松平家は、家康を輩出した松平家の分家の総称です。松平氏自身は三河の松平郷の古くからの一族でした。しかし源氏の子孫で、世良田もしくは得川の一族という氏親が婿養子になり、彼が初代扱になります。そして出自が重要なことから家康が松平から得川に通じる徳川と姓を改名して官位をもらいました。
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