北条義時と言えば、ドラマの主人公になるなど最近注目を集める歴史人物ではあります。
鎌倉幕府で大きな貢献をした北条義時ですが、なんとなく「悪人」のイメージがあるのではないでしょうか。少なくともヒーローのような扱いはされませんよね。今回の記事ではそんな北条義時がなぜ、悪人のイメージなのか調べてみましょう。
若き日の北条義時
北条義時は源頼朝の義理の父、「北条時政」の次男として生まれました。
父や兄とともに平家打倒の挙兵に従いますが、その時に兄が戦死し、義時が実質的に北条家の跡継ぎとなります。
そして頼朝の側近として平家打倒の戦いや、源義経を追討した奥州での戦いにも従軍し、戦功をあげています。
このように、義時が若いころは源頼朝に従い、戦に明け暮れていたことからあまり「悪人」というイメージはなく、むしろ忠義に厚いイメージです。それが変わったのは頼朝が亡くなった後でした。
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頼朝死後、牙をむきだす北条義時
頼朝の死後は息子の「頼家」が跡を継いだのですが、彼を抑えるために有力な御家人は13人の合議制で政治を行います。
そして頼家の舅であり、権力を握ろうとした比企能員を滅ぼし、そのまま頼家を将軍職から追い出してしまいます。そして頼家の弟の「実朝」を擁立、次いで頼家の息子の「一幡」も殺してしまいます。失意のうちに頼家も死去しますが、「義時が暗殺した」という資料もあり、これが義時の「主殺し」、そして悪人のイメージを強めています。
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父を追放する北条義時
義時は父時政とともに権力を握っていたのですが、頼家の死後対立が深まります。これは時政が実朝を殺し、自分の娘婿を将軍にしようと画策したからだと言われています。
しかし、この計画を察知した義時は実朝を保護し、大半の御家人も時政を見限ります。これによって時政は半ば強制的に出家させられ、のちに亡くなります。この「父親を追放」したということも義時のイメージ悪化につながっています。
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次の将軍殺害疑惑
3代将軍実朝は朝廷に近づき高い官位を得るなど、「執権」と言われ幕府の権力を握っていた北条家と距離が開き始めました。そんな時、実朝が「鶴岡八幡宮」に参拝する際に、先代将軍の息子「公暁」に殺されてしまうという事件が起きます。
この時、義時は実朝と同伴する予定でしたが、体調不良でキャンセルしており、このことから「義時が公暁を操り実朝を殺したのではないか?」という疑惑が沸き上がり、「義時悪人説」が大きくなります。ただ史書にはそのような記述がなく、実朝暗殺については公暁の単独説、朝廷が黒幕説など、様々な説があります。
この事件によって源氏の正統は断絶し、のちの鎌倉幕府の将軍は公家や天皇家から迎えることになります。これらの将軍は完全にお飾りで、実際の政治は北条家が担っていくことになります。
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天皇家と戦う!「承久の乱」
当時朝廷で権力を持っていた「後鳥羽上皇」と鎌倉幕府は対立していました。その対立は実朝の死後さらに激化し、後鳥羽上皇はついに挙兵します。これが「承久の乱」です。
鎌倉幕府の御家人たちは天皇家と戦うことに動揺をしますが、北条政子が「頼朝の恩を忘れたのか!」と演説し、御家人たちは団結して天皇家の軍隊を破ります。その結果、義時は後鳥羽上皇など対立した関係者を次々と島流しにし、さらに鎌倉幕府の権力を高めることになります。
この「天皇家と戦った」という事実が天皇家の神聖化を高めた明治時代以降では極めて評判が悪く、「義時は天皇家に弓をひく悪人」というイメージがさらに固定化されていくのです。
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北条義時の最期は殺された?
60歳を過ぎても幕府の政治を精力的に行っていましたが、62歳の時に北条義時は突然亡くなります。それまで特に大きな病気の兆候もなかったため、毒殺説や刺殺された説など、「殺された」という説が当時の日記などに記載されています。これは義時がかなり悪人として恨まれていたことを想像させます。
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日本史ライターみうらの独り言
以上、「義時悪人説」について検証しました。かなりの政治力を持っていたと思われる義時ですが、かなり敵は多かったようです。そのせいで義時の悪評が広まり、それが現在まで続いているのかもしれませんね。
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