雑学(戦国時代)

戦国大名は儲かるの?決算書を拝見!

宋銭 お金と紙幣

 

戦国時代といえば、その主役は地方に群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)した戦国大名です。でも、ぶっちゃけ戦国大名って儲かったのでしょうか?

 

金の亡者の豊臣秀吉

 

織田信長(おだのぶなが)豊臣秀吉(とよとみひでよし)のように大金持ちイメージのある大名はいるにはいますが、いずれも戦国末の天下人ですし、それ以外の中小戦国大名は儲かったのか気になります。

 

そこで今回のほの日は、お金の流れで見る戦国時代 歴戦の武将もそろばんには勝てないを参考に、戦国大名の財政収支について解説します。

 

越後長尾家享禄2年(1529年)の決算書

仙台城

 

戦国大名の決算については、ほとんど資料が残されていませんが、珍しく越後長尾家(ながおけ)享禄(きょうろく)2年(1529年)の決算書が残されていました。

 

収入 年貢(済物も合算) 4770貫553文
御礼銭 686貫500文
収入合計 5457貫53文
支出 通常経費  4569貫655文
御作事:1032貫73文  2687貫276文
御台所方:290貫400文
林泉寺僧へ:450貫
京都への御礼銭:462貫800文
所々へ馬御所望につき路銀:63貫
不明:389貫
御礼銭未進分 14貫351文
支出合計 7296貫282文
差引(御借銭) 1839229

 

こちらを見ると、長尾家の決算は、1839貫のマイナス。現在価格だと2億2千万円という莫大な赤字が計上されています。この決算書が正しいなら、戦国大名越後長尾氏は酷いボンビー状態でした。

 

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戦国大名はどうしてボンビーなのか?

戦費負担で貧乏になる鎌倉武士

 

では、どうして戦国大名はボンビーだったのでしょうか?

 

一番大きな原因は、当時の日本には荘園と呼ばれる有力者が私有する耕作地が多くあった事です。この荘園は幕府が任命した地頭と貴族が任命した荘官で折半され、領民はこの両者に年貢を半々納めていましたが、それ以外にも武装した農民が豪族化して、荘園から年貢を取るなどしていて権利関係が複雑でした。

 

荘園に逃げ込む鉄の職工達

 

こういう入り組んだ荘園に戦国大名が割り込むと、当然、年貢の取り分を巡ってトラブルが発生します。それにより領国経営に問題が発生しても困るので戦国大名は支配地域のわりに、少ない年貢で遣り繰りをしないといけませんでした。

 

馬にのり凱旋する将軍モブ(兵士)

 

その上、戦国大名は従来の守護大名と違い、基本室町幕府や朝廷の権威をあてにせず、自力で領国の治安を守るので、合戦費用や作事と呼ばれた砦や城の補修で多額の費用を費やす事になり財政はいつも火の車だったのです。

 

豊臣秀吉が太閤検地(たいこうけんち)で荘園を解消し、領地支配を一元化した事を考えれば、戦国大名が複雑な荘園の権利関係に悩んだ事が垣間見られます。

 

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税収不足分は借金で補った

戦国時代の武家屋敷a

 

長尾氏の場合、本来必要な税収の30%が不足しているわけですが、この穴埋はどうしていたのでしょうか?

 

これらはどうやら、地域の商人や個人から借入して済ませていたようです。しかし、借りればこれを返済しないといけないわけで、戦国大名は時に武力を背景に借金を踏み倒す事もあったようです。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

ただ、借金の度に踏み倒しを繰り返せば城下から商人は逃げていくに決まっているので、返済と踏み倒しの兼ね合いは難しいものだった事でしょう。

 

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複雑な税制を統一した後北条氏

北条早雲

 

天下に近かったわけではありませんが、ローカル戦国大名として大きな力を持っていたのが後北条氏(ごほうじょうし)でした。

 

すでに初代の伊勢宗瑞(いせそうずい)から領国において検地を開始した後北条氏は、その後も代替わりの度に検地を繰り返し複雑な荘園の権利関係を徐々に整理し、北条氏に入る年貢収入を増やしていきました。

兵糧を運ぶ兵士

 

特に北条氏康(ほうじょううじやす)天文(てんぶん)19年(1550年)に先代から引き継がれてきた諸点役と呼ばれる種々雑多な税を段銭(たんせん)懸銭(かけせん)棟別銭(むねべつせん)の3つに統合した事は画期的でした。

 

後北条氏の領民は、これら三税と年貢を納めればよい事になり、負担が大きく軽減されたわけではありませんが、恣意的に在地領主に搾取されていた頃に比較すると、領民の納税のモチベーションが大きく上がる事になります。こうして、税収を上げた後北条氏は、資金力を背景に度々大減税をおこない、民力の保護を図りながら国力を拡大していったのです。

 

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海を欲しがった戦国大名

真田丸 武田信玄

 

後北条氏のように、領域内の勢力を徐々に弱めながら税制を統一できた戦国大名と違い、領国内の国人や寺社が強力な戦国大名は、年貢の増収について苦戦を強いられる事になります。

 

年貢に頼れないなら残る手段は、略奪あるいは港を手に入れたり、交通の要衝を確保するなどして商業面での収入増を見込むしかありませんでした。先に取り上げた越後長尾氏や、国人勢力が強力で土地も痩せていた甲斐武田氏(たけだし)は、年貢ではなく、略奪や商業を盛んにして国力増強に邁進していく事になります。

 

鉄甲船

 

その中で上杉謙信(うえすぎけんしん)は、柏崎と直江津という日本海に面した2つの良港を手に入れました。この2つの港からあがる関税収入は年に4万貫もあったとされ、前述の享禄2年の長尾氏の決算収支から見ても、ざっと10倍弱の収益です。

 

最近では、武田信玄(たけだしんげん)川中島(かわなかじま)の戦いに臨んだのは、越後の直江津と柏崎の港を手中に収めるのが目的だったという説もあり、いかに信玄が年貢以外の収入を切望していたかが分かりますね。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

赤字経営をしながら、独立独歩で戦国に割拠したローカル支配者戦国大名。あの手この手の経営努力は、荘園を解体し地元の特産品を産むなど、現在につながる地方色豊かな日本社会を作り出しました。

 

恵まれないからと愚痴を言わずに、与えらえた条件下で懸命に努力する大事さを戦国大名は私達に伝えているのかも知れませんね。

 

参考文献:お金の流れで見る 戦国時代 kadokawa

 

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