河豚は縄文時代から日本人に食され、現在では大変な高級魚として知られています。
しかし、そんな河豚、戦国時代の末期より豊臣秀吉の河豚禁止令により食べる事が禁止されていたってご存知ですか?
その禁止期間は文明開化の明治に入っても継続し、同じく戦国末期に出されたバテレン追放令よりも長く続いたのです。今回は、河豚禁止令について解説してみましょう。
この記事の目次
縄文時代から食された河豚
河豚は美味な魚として大昔から食され、縄文時代の日本の里浜貝塚からも河豚の骨が出土しています。この事から、縄文時代には河豚が食用にされていたと考えられていますが、同時に河豚毒による犠牲者も出ていました。
同じく縄文時代の姥山貝塚の住居跡からは、5人の住人全員が何らかの急病で同時に死んだような状態の遺骨も出土しており、近くから河豚の骨も出ている事から、河豚毒による中毒死ではないかとする説もあります。こんな大昔から、日本人は命懸けで河豚を食べていたんですね。
関連記事:大阪城とはどんなお城?徳川時代にも繁栄した「天下の台所」楽しみ方や秘密・魅力をご紹介
関連記事:【書評】「縄文人に相談だ」を読んでみた!縄文人の優しさと厳しさ。
豊臣秀吉が河豚禁止令を出す
時代は下って豊臣政権時代におこなわれた文禄の役の際、下関に集結した兵士がガンガン名産の河豚を食べ中毒死する事例が続出しました。
そこで、秀吉は将兵に対して
「いくさで死ぬならともかく、ふくに当たって死んだちゅーたら、しゃれにもならにゃーでよぉ!」と河豚禁止令を発令したのですが、諸国の大名が動員された大遠征だったせいか、朝鮮出兵が失敗し秀吉が没し徳川の世の中になっても、河豚禁止令は、そのまま続行される事になります。
特に、下関を領地に持つ、長府藩を支藩とする毛利藩では「河豚を食べた者は家禄没収の上に家名断絶」という厳しい措置が取られました。
関連記事:長州藩はどうしてああなってしまったのか?3つの理由
関連記事:【悲報】天皇に振られた長州藩、八・一八の政変はどうして起きた?
河豚を食う者は武士にあらず!
どうして、こんなに厳しい措置が取られたのか?
それは、主君の為に捨てるべき命を河豚を食べて失うのは、食い意地が張った卑しい行為だと考えられたからです。このように河豚禁止令は武士道に絡んでいたので、庶民に罰はありませんでしたが、庶民でも自粛して口にしない人は多くいました。
しかし、河豚の産地である下関では、江戸時代を通じて日常的に河豚を食べていたようで、松尾芭蕉はその光景に驚き「河豚汁や 鯛もあるのに 無分別」と一句詠んでいます。
ところが芭蕉は、無分別にも河豚汁を食したようで、翌日には、「あら何ともなや 昨日はすぎて ふくの汁」と河豚汁を腹一杯食べた事を詠んでいます。
関連記事:服部半蔵と松尾芭蕉は同一人物?都市伝説を検証してみる
関連記事:アマビエとはどんな妖怪?ホントは疫病退散の御利益なし
伊藤博文が解禁した河豚禁止令
さて、江戸時代が終わると、文明開化で河豚も解禁になり皆が河豚を食べられるようになったかと思いきや事態は逆になりました。明治15年(1882年)明治政府は「河豚を食う者は拘置科料に処する」として河豚食の取り締まりに本腰を入れます。
これにより、全国的に生河豚の販売が禁止され、下関でもその美味しさを楽しむ事が難しくなりました。ところが、初代総理大臣の伊藤博文が下関を訪問して、春帆楼に宿泊した折、あいにく時化のために魚が獲れませんでした。
困った女将は、罰を覚悟で河豚を伊藤の膳に出すと、伊藤は一口食べて「一身よく百味の相を整えている」と美味を褒め称えます。こうして伊藤博文は、山口県令(知事)に対して、河豚食解禁を働きかけ、明治21年(1888年)から、下関ではおおっぴらに河豚が食べられるようになったそうです。
絶対に河豚を食わなかった山県有朋
伊藤博文と仲が良く、自身も内閣総理大臣を務めた山県有朋ですが、彼は伊藤とは正反対で、下関に居た時にも、絶対に河豚を食わなかったそうです。
山県は非常に慎重な性格で、少しでも命の危険がある食べ物は回避していたそうで、親分の高杉晋作が「ちゃんと毒は取り除いてある」と食べながらいくら説得しても、「万が一の事があってはいけない」と頑なに河豚を食べようとはしなかったとか…
そのお陰で、大将11年(1922年)まで生きて84歳の天寿を全うした山県有朋ですが、山県じゃなくて伊藤が総理の時に下関に来てもらった春帆楼は幸運でしたね。
関連記事:徴兵!近代を背負った成人達の右往左往
関連記事:徴兵制度とはどんな制度?富国強兵を目指した徴兵制度導入の目的とは
しぶとく続いた河豚禁止令
しかし、河豚禁止令は、その他の地域では厳重に守られ、兵庫県が大正7年(1918年)、大阪府が昭和16年(1941年)に河豚禁止令を解除します。ところが長い間、河豚の食用・調理にあたっての条例はなかったようで、1948年に大阪府が制定した「ふぐ販売営業取締条例」が最初のようです。
つまり、それ以前には河豚の調理については、料理人に一任されていたという事のようで、そう考えると、政府としては禁令を出しておいた方が無難だったのでしょうか?
関連記事:藩札とは?江戸時代に発行されたローカル紙幣の不思議
関連記事:楠瀬喜多生誕 183 周年世界で3番目に女性参政権を勝ち取った土佐の女傑
日本史ライターkawausoの独り言
さて、バテレン追放令に連なる禁教令は、1873年(明治6年)2月には解禁されましたから、河豚禁止令の寿命はそれよりも地域によっては半世紀以上も継続した事になります。禁令を出した豊臣秀吉も、まさか河豚禁止令がこんなに長く守られるとは考えていなかったでしょうね。
参考:Wikipedia
関連記事:豊臣秀吉の晩年の奇行はウェルニッケ脳症の後遺症だった?
関連記事:戦国時代の庶民は天皇や幕府についてどう考えていたの?