村上義清は戦国時代の信濃の名将で、武田信玄を二度も破り手傷を負わせた事で知られます。そんな村上義清は戦国時代の戦い方を変える部隊編成を編み出した事が、乃至政彦 戦国の陣形に出てきます。
村上義清は天文17年(1548年)上田原の戦いにおいて、物量に勝る信玄に追い詰められ起死回生の一手を打ちました。それが、600名の部隊を編制し、先頭を150名の弓隊、中間を50名の鉄砲隊、後詰を200の騎兵と200の槍歩兵にして、戦況に関係なく武田信玄(この時点では晴信)の首を獲るものです。
この時代、兵種毎に部隊を編成する概念はなく、村上義清率いる600名の決死隊は信玄の旗本本陣に殺到し、信玄に深手を負わせたと記録されています。この鉄砲隊と弓隊、騎兵、槍隊の組み合わせは、村上義清が亡命した上杉謙信に伝わり、謙信は義清の兵種を採用。
ここから上杉軍団は無敵の強さを誇るようになり、同様の兵種が北条氏、武田氏へも伝来し、その後西国へ伝わり、朝鮮の役でも利用されて徳川時代に伝承されました。
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