西郷隆盛は負け犬なのになぜ人気?西郷どんギャップの秘密に迫る


西郷隆盛像

 

NHK大河ドラマ青天(せいてん)()けにも登場した西郷隆盛(さいごうたかもり)。彼は明治十年の西南戦争において敗北し、以後二十年以上も天皇に弓を引いた賊として朝敵の汚名を受ける事になります。

 

ところが賊認定された西郷の人気は衰える事無く、昭和に入って坂本龍馬に人気を抜かれるまで日本人に最も愛される人物であり続けました。今回は「負け犬」西郷にどうして人気が集まるのか?を考えてみます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 ほのぼの日本史レポート引用について



判官びいきだけではない理由

源義経の八艘飛び

 

西郷隆盛の生涯は、薩摩藩の重鎮として新政府軍を率いて幕府を倒した前半部分と、明治政府の腐敗に失望して征韓論(せいかんろん)で破れて鹿児島に隠遁(いんとん)した後、部下に担がれて西南戦争の総大将として自らが樹立した新政府軍と戦い敗死する後半部分で劇的に分かれています。

 

これが判官(はんがん)びいきの日本人の心情にマッチするとも言えますが、判官びいきと言えば、源義経もいて、西郷以上に落差が大きく同情を集めやすい人生を送っています。

 

しかし、それでも義経の人気は西郷の人気よりはランクが落ちます。では、判官びいき以外に西郷人気には何が影響しているのでしょうか?

 

関連記事:西郷隆盛の征韓論とはどんなもの?

関連記事:西郷隆盛が実行した廃藩置県はどんな偉業?

 

西郷人気はギャップ萌え

チェストと叫ぶ西郷隆盛

 

私は西郷人気の秘密はギャップ萌えだと考えています。例えば西郷と仲が良かった勝海舟(かつかいしゅう)は西郷の顔について以下のように語ります。

西郷糸子と西郷隆盛

 

「西郷は怖い顔だったと言わないと人が信じぬから、ああ言うがね。本当はごく優しい顔だったよ。アハハ等と笑ってね」

 

西郷は写真嫌いだった事もあり、当人の写真は確認されていません。現在流布しているのは、西郷の弟である西郷従道(さいごうつぐみち)と従兄弟である大山巌(おおやまいわお)の顔を足して2で割ったモンタージュ肖像画です。

 

西郷従道 幕末

 

そのモンタージュの肖像画は眉が太く厳めしい表情をしていて、いかにも重厚で自他共に厳しい性格であるかのように見えます。明治時代の人々の西郷イメージは肖像画によるものが大きく、それは実際に西郷と会っている海舟の認識とは大きく違います。ここには、ギャップ萌えが発生する素地が隠れていました。

 

関連記事:【西郷どん】さらば斉彬!幻の上洛計画に迫る

関連記事:【西郷どん】日米修好通商条約って何が問題だったの?

 

西郷どん

 

 

オシャレで礼儀正しく繊細、涙もろい素顔

 

明治時代、西郷は戦国時代の英雄豪傑のイメージで語られていました。

 

それは、

果断(かだん)で沈着冷静

薩摩弁で話す

豪放磊落(ごうほうらいらく)

身なりにこだわらない

清濁併(せいだくあわ)せ呑む器量

 

このようなものでした。ところが実際の西郷は豪傑イメージとは真逆の人でした。

 

篤姫

 

西郷は薩摩藩では経理をしていたので計算に強く、細かい所まで気が回る人でした。篤姫(あつひめ)の嫁入り道具の選定まで担当していたそうで、その目利きはプロでも驚くほどだったそうです。また、大柄の体に似合わず手先も器用で、奄美大島に流されている頃には生活用具や釣り道具を自作していました。

 

西郷隆盛(ゆるキャラ)

 

身なりについては上野の西郷像のイメージが強いですが、あれは兎狩りに出かける格好で私たちがウォーキングの時にジャージを着るようなもの、普段の西郷は常にキチンとした身なりで非常にオシャレでした。また、奄美大島に流されて運動不足で太るまでは筋肉質で、美男であったようです。

 

もちろん、薩摩弁ばかりではなく当時の江戸言葉にも精通しています。そうでなければ、島津斉彬の代理として各地の大名や家老と交渉する事は出来なかったでしょう。当然、礼儀正しく相手が誰でも常に礼儀を尽くして対応していました。

 

自分だけ生き残って涙する西郷どん 西郷隆盛

 

西郷は非常に繊細でもあり、弟の吉二郎(きちじろう)が戊辰戦争で戦死した時はショックで寝込み、感動した時や哀しい時には人目もはばからず大粒の涙を流しました。

 

 

繊細さにも影響していますが、実際の西郷は人の好き嫌いが激しく、嫌いな人物を登用する事はなかったようです。豪傑イメージのまま西郷と対面した人はギャップに驚き、概ね好感度を上げて帰って行きました。

 

関連記事:村田新八とはどんな人?「西郷どん」でアコーディオンを弾いた薩摩藩士

関連記事:日本で初めてダイエットをしたのは西郷どん?

 

ほのぼの日本史Youtubeチャンネル

 

誤りを素直に認める

 

最近の日本では、明らかに間違っていても決してあやまりを認めない。「謝ったら死ぬ病」が大流行しています。もし、自分の推しが「謝ったら死ぬ病」に感染していたら哀しいしドン引きですが、西郷隆盛は、自分が間違っていると思えば素直に考え方を改める人でした。

 

幕末 大砲発射

 

例えば、西郷は禁門(きんもん)の変で御所を砲撃した長州藩を許せず、長州征伐では厳しい処分を掲げていましたが、途中勝海舟に面会し「幕府はもうダメだから長州をあまり追い詰めないで、手を組む事も考えたほうがいい」とアドバイスされると考えを改め、藩主の謹慎と長州藩三家老の切腹で処分を収めようとしました。

切腹詐欺の徳川慶喜

 

有名な江戸無血開城でも、西郷は「徳川慶喜を殺さなければ維新(いしん)成就(じょうじゅ)できない」と厳しい姿勢で臨んでいましたが、山岡鉄舟や勝海舟と交渉し、他はともかく慶喜を殺せば幕臣は徹底抗戦すると悟ると「慶喜を助命せよ」という勝海舟の難しい条件を呑みます。

 

西郷は「勝の策略でまるめこまれた!」と薩長軍でも激しく非難されますが、あくまでも海舟を信じ慶喜助命の方針を貫いて江戸は戦火を免れる事が出来たのです。

国会議事堂

 

明治維新の総決算と呼べる廃藩置県(はいはんちけん)の時も、西郷は薩摩で政治改革の途中でした。木戸孝允(きどたかよし)大久保利通(おおくぼとしみち)は子分の山縣有朋(やまがたありとも)を薩摩に派遣して廃藩置県を断行したいので、協力して欲しいと西郷に要請しますが、とても西郷が承知しないだろうと思っていました。

 

しかし、西郷は廃藩置県が回避できない時代の要請だと悟ると山縣の意見に賛同。そればかりか、みずから上京して陣頭指揮を取り廃藩置県を成就させたのです。

 

大人になるとプライドが邪魔して、誤りを認める事が難しくなります。ましてや、地位のあればなおさらに謝れないものですが、西郷は素直に誤りを認め考えを変える事が出来ました。

 

関連記事:西南戦争はなぜ起こった?西郷隆盛を死地に追いやった大久保利通の狙い

関連記事:明治天皇とはどんな人?天皇に即位から西南戦争、人柄まで解説

 

こんにちは西洋

 

庶民の怒りを代弁した西郷隆盛

幕末軍服姿の西郷どん 西郷隆盛

 

明治維新で樹立された新政府ですが、当初の世直しの期待とは裏腹に迷走が続き、数年の間に藩閥が出来て、彼らの政治の私物化や世論の弾圧が目につくようになります。

征韓論争の後に相次いだ士族反乱は、それら新政府の腐敗に対する不満の現れでした。

 

長く沈黙を守った西郷ですが、ついには自分が築いた明治政府にモノ申す形で挙兵します。これは当時の人々に「西郷さんは堕落していなかった。庶民の側について蜂起した」とする強い印象を与えました。

 

兵士(庶民・村人)

 

結果として西郷の反乱は失敗し西郷は戦死しますが、庶民の怒りを代弁して死んだというイメージは決定的に日本人の心に刻まれ、政治の腐敗がささやかれる度に、西郷さんがいてくれたらと記憶を呼び起こされる存在になったのです。

 

関連記事:坂本龍馬はどんな性格をしていたの?同時代の偉人たちから見た龍馬の性格

関連記事:渋沢栄一は幕末の偉人をどう評価したの?

 

ながら日本史

 

日本史ライターkawausoのまとめ

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

西郷隆盛は負け犬なのになぜ人気があるのか?について解説しました。

 

西郷には当初、戦国武将のような英雄豪傑イメージがありましたが、素顔は真逆で、気配りができ、オシャレで礼儀正しく、自分の誤りを認められるという江頭2:50分のような美点があり、これがギャップ萌えに繋がったと考えられます。

 

そして決定的なのは、新政府の腐敗に目をそむければ栄耀栄華(えいようえいが)は思いのままだった西郷が、自分が築いた明治政府に異を唱え、すべての栄光を捨て賊軍になっても蜂起し正義を貫こうとした事でしょうね。

 

関連記事:攘夷は勘違い?西洋列強に日本侵略の意志はなかった?

関連記事:郷中教育とは?明治維新の原動力となった答えを見つける教育

 

激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末はじめての幕末

 

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
カワウソ編集長

カワウソ編集長

日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
【好きな歴史人物】
勝海舟、西郷隆盛、織田信長

-西郷家(明治)
-,