2021年のNHk大河ドラマは渋沢栄一が主人公の青天を衝けです。
幕末には尊王攘夷の志士、明治には実業家として日本の資本主義の父と呼ばれる渋沢ですが、幕末には同じく坂本龍馬というビジネスマンっぽい発想の人がいました。
しかし、坂本龍馬は31歳の若さで凶刃に倒れ、渋沢栄一は90歳を越えて昭和まで生きました。2人のビジネスマンの人生は、どこがどう違っていたのでしょうか?
この記事の目次
どちらも裕福で低い身分からのスタート
坂本龍馬は天保6年(1836年)に土佐藩の郷士、坂本八平の次男として誕生します。一方、渋沢栄一は天保11年(1840年)に武蔵国の農民、渋沢市郎右衛門元助の長男として誕生しました。
2人の年齢は西暦上4歳しか違わず、ほとんど同時代人と言ってよい存在です。
また、2人は身分こそ低いものの、坂本龍馬の本家は才谷屋という御用商人で、質屋や酒造所、呉服商を営む裕福な家。栄一の実家も藍玉の製造販売と養蚕をしながら米、麦、野菜を栽培する兼業農家で豪農だったそうです。どちらも裕福で低い身分で、身近にビジネスがあるというのは共通していました。
関連記事:徳川慶喜は静岡で余生を過ごした?知られざる逸話とゆかりの地を紹介
龍馬も栄一も北辰一刀流を学ぶ
さて、成長した龍馬は、嘉永六年(1853年)に自費での江戸遊学を許され北辰一刀流の桶町千葉道場に弟子入りしています。桶町道場の千葉定吉は、お玉が池の本家千葉道場の道場主千葉周作の弟でした。
渋沢栄一も龍馬から8年遅れ、文久元年(1861年)にお玉が池の千葉道場に入門して北辰一刀流を学んでいます。
しかし龍馬と違い、栄一は千葉道場で激烈な尊王攘夷思想を持つ仲間に共鳴してしまい、文久3年(1863年)には、従兄の渋沢喜作らと高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちして、長州と連携して幕府を討つという計画を立てますが、従兄弟の尾高長七郎の懸命な説得で断念しました。
同じ頃の龍馬は、すでに小攘夷(志士個人のテロ行為)を無意味と悟り土佐藩を脱藩して、勝海舟の門人となり海軍操練所で軍艦操縦を学んでいます。
これは、島国日本は海軍を強化し海外と盛んに貿易して国を富ませ、富国強兵を図って大攘夷(外国の支配を脱して自主独立を勝ち取る)を達するとした勝海舟の方針に従ったものでした。
龍馬が4歳年長とはいえ、この時点では龍馬の視野の方が栄一より広かった事が分かりますね。
関連記事:坂本龍馬の海援隊とはどんな組織?
栄一は一橋慶喜の家臣、龍馬は薩長方につく
文久3年(1863年)京都で八・一八の政変が起き、尊攘派の勢力は著しく後退します。
武市瑞山や岡田以蔵など土佐勤王党は土佐藩に一斉検挙されて壊滅。土佐勤王党とは別行動を取っていた龍馬ですが、勝海舟の塾生の安岡金馬が禁門の変に参加していた事が幕府に発覚。海舟も軍艦奉行をクビとなり、慶応元年(1865年)神戸海軍操練所も閉鎖の憂き目に遭います。
海舟は、江戸帰還を命じられ、路頭に迷う龍馬たち塾生を薩摩藩家老小松帯刀に預けました。こうして龍馬は薩摩、さらには長州の間を往来し倒幕に従事しました。
逆に渋沢栄一は幕府の尊攘派狩りに怯えている内に、一橋家の重臣平岡円四郎に拾われ、将軍後見職の一橋慶喜に仕える事になります。当時の慶喜は尊攘派から京都の治安を守る禁裏護衛総督の任に就き、禁門の変では攻め上って来た長州藩を薩摩藩等と協力して撃退していますので、栄一は一夜にして正反対の立場に身を置いた事になりますね。
関連記事:来島又兵衛、禁門の変に死す!長州だけにやっぱり最後はキレたのか?
関連記事:【超迷惑】下関戦争の賠償金で幕府も明治政府も四苦八苦
龍馬は凶刃に倒れ、栄一はフランスへ
その後の龍馬は、薩摩藩に航海術を買われて亀山社中を結成して海上貿易と海戦を担当するようになります。同じ頃、薩摩藩は高杉晋作の挙兵により、倒幕派が主導権を握った長州藩に接近、竜馬の亀山社中は長州藩に薩摩名義で購入した武器を横流しするという武器商人の役割を演じました。
第二次長州征伐で、長州藩が幕府軍を撃破すると龍馬もユニオン号で砲撃に参加しますが、戦争が終わると薩摩藩にも長州藩にも用済みになり、社中はお払い箱になります。
経済的に窮した龍馬は、土佐藩重臣後藤象二郎が海軍力の増強を図っている事を知り、自分達を積極的に売り込んで土佐藩の外郭団体である海援隊を結成します。
しかし、大政奉還など政局に強く関与した事が災いし、慶応3年(1867年)11月15日、京都近江屋で、京都見廻組に斬殺され、31年の生涯を閉じました。
一方の渋沢栄一は、慶応2年(1866年)12月、主君の一橋慶喜が15代将軍、徳川慶喜になると、パリ万国博覧会に派遣される徳川昭武の随行員として渡仏を命じられます。栄一はフランス、パリの進んだ政治、経済の仕組みに驚き、小攘夷を棄て大攘夷を目指す事になりました。
関連記事:徳川慶喜は会津藩をポイ捨てにした?
一番危険な時期にどこにいたかが命運を分けた
龍馬と栄一の人生は、倒幕と佐幕でニアミスを繰り返しつつ、両者とも小攘夷ではなく大攘夷を目指す方向で一致していきました。2人の一番の違いは、日本がもっとも激動した慶応年間に龍馬は政治の中心部で活動し、栄一は安全なパリで近代経済の吸収に勤しんでいた事でしょう。
栄一とて、もし一番危険な時期に日本にいたら慶喜の側近として小栗忠順のように新政府軍に逮捕され、処刑されなかったとは言えません。禁門の変の時に慶喜が率いていた兵士は、栄一が武蔵国を回って集めた兵だそうですから、長州藩からすれば、栄一に憎しみが向く可能性もあったでしょう。栄一は、一番危険な時を安全なパリで過ごせたから、明治から昭和に到る長い期間、経済人として活躍する事が出来たのです。
関連記事:岩崎弥太郎とはどんな人?世界の三菱を築き上げた一代の政商の生涯
日本史ライターkawausoの独り言
志士としてはパッとしなかった栄一は、やはり龍馬とは違い、新しい明治の世で活躍する事を運命づけられていたのかも知れません。これだけ共通点があるのに、人生が大きく異なるとは、歴史とは面白いですね。
参考:Wikipedia
関連記事:渋沢栄一とはどんな人?大政奉還後、明治時代の実業家になるまで