2021年NHK大河ドラマの主役でもある渋沢栄一。
尊王攘夷の志士でもあった彼ですが、志士としての活動は全く有名ではなく、むしろ早期に挫折して、明治後の経済人としての働きが超有名な人物です。しかし、渋沢は明治初期には明治政府の役人として幕末の偉人と関係を持ち、経済人の視点から様々な感想を述べていました。
今回は、そんな渋沢栄一の幕末の偉人評を紹介しましょう。
大久保利通は財政オンチ
渋沢栄一は、大久保利通とは大喧嘩して大蔵省を飛び出す事になります。明治3年、大蔵卿だった大久保利通は、大蔵大丞の渋沢栄一呼び出し「陸軍の予算を八百万円、海軍の予算を二百五十万円とした政府の決議を大蔵省としては受けるつもりだがどうか?」と尋ねました。
この下問は形式上のもので、大久保はすでに内心では決定事項と考えていましたが、渋沢は大久保の思考は理解しつつも明確に反対を唱えます。
理由は単純で、当時は明治政府が樹立されたばかりで、全国からどれだけ税金が集まるか分からない状態でした。それで歳入を歳出が上回れば国家運営が難しくなるので、歳入がハッキリしてから予算を配分しましょうと当たり前の事を答えたのです。
しかし、これに対し大久保利通は珍しく顔色を変えて激怒、「渋沢は我が国の陸海軍がどうなっても構わんというのか!」と詰問しました。
このズレた詰問により渋沢は、大久保が財政を理解していない財政オンチだと確信し、その下で働く事に不安を覚えたそうです。もっとも財政以外については、腹の底が少しも見えない人で嫌いではあったものの、優れた見識を持つ人物であると認めていました。
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大隈重信はフランクなおしゃべり
大隈重信は、維新後に静岡燔で商法会所を設立して実業家として活動していた渋沢栄一に声を掛け、民部省に出仕させた人物です。
この時、渋沢は「国の仕事は経験がないので無理です」と断りますが、大隈は「不安は当然だ!誰も経験がないんだ。未経験者同士仲良くやろうぜ!」このようにまくしたて、言い逃れが出来ないように丸め込んでしまうなど、渋沢より一枚上手でした。
民部省で、渋沢は度量衡の統一や国立銀行条例などを制定していますが、そんな渋沢の大隈重信についての評価は堅苦しい人かと思って会えば、案外に砕けた人であり、「君も書生、私も書生で生涯勉強の身なのだから、気楽な書生づきあいをしよう」と言い、少しの隔たりもなく、愉快な心持ちを覚えたと語っています。
一方で、大隈が非常なおしゃべりであり、人の話を聞くより人に話を聞かせる人であった事に呆れていて、大隈の所に行くときには大隈が口を開くより前に「お話の前に、これだけは言わせて下さい。あなたのお話はそれから聞きます」と釘を刺し、必ず要件を述べてから大隈の話に付き合った事も記録していました。
また、大隈は人の話を聞かないのに、人が何を言ったかは、よく覚えていると皮肉を込めて書いています。
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西郷隆盛は厳しさと優しさが同居した人
渋沢栄一が西郷隆盛と会ったのは、彼がまだ攘夷の志士だった文久2年(1862年)です。その頃、西郷は京都相国寺の一角を借りて薩摩藩邸を建て、そこに渋沢が尋ねました。
この時代、攘夷志士の中で、有名人を尋ねて時勢を論じるのが流行していて、渋沢もミーハー精神で西郷に会ってみようと面白半分で薩摩藩邸を尋ねるのですが、西郷は快く会い、攘夷や藩政改革や幕政整理を語り合い、大いに得る所があったと書いています。
また、西郷は渋沢が食い詰めて攘夷志士の真似事をしているのではなく、生活手段を持って、その上で志士活動しているのは立派であると褒め、今後も遊びに来るように言われ、時には豚鍋を一緒に食べたそうです。
当時は、猫も杓子も攘夷!攘夷だったので、志もないのに攘夷志士を気取り、商家から軍資金と称してお金を巻き上げる似非志士が大勢いて、西郷は苦々しい思いをしていましたが、渋沢がそういう似非ではない事を知って西郷は好感を持ったようですね。
そんな西郷についての渋沢の印象は、普段は柔和で愛嬌のある好人物だが、一度何かを決すると正反対で、厳しい威厳のある態度になる恩威備わった人物であり、賢愚を超越し、馬鹿にされても気づかず褒められても何とも思わないので、一見すると賢愚さえ定かではない大人物と評しています。
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木戸孝允は細かい点まで気を配る人物
渋沢栄一は明治4年、大蔵省に在籍している頃に木戸孝允に会っています。正確に言うと、木戸孝允が湯島天神に住んでいた渋沢に会いに来たのです。当時の木戸は参議であり、渋沢が会いに行く事はあれど、逆は考えられない高位の人物。渋沢は何事だろうと恐縮しながら木戸の前に出て行きました。
木戸の要件は大蔵省にいる江幡という男を太政官に採用したいが、学識については申し分がない事が分かった。だが、人柄についてはよく分からないので同僚である渋沢の忌憚のない意見を聞きたいというものです。
渋沢は、お安い御用と江幡について知っている事を全て話しますが、下級官吏の登用についても、細かく神経を使い不足がないようにする木戸の態度に感心しています。
維新の三傑では小粒とされ、大久保と西郷という強い個性に挟まれた木戸は調整役として、両者の決定の隙間部分にも注意深く目を向けていたわけです。
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江藤新平は物識りだが自己中
司法卿の江藤新平と大蔵省の渋沢栄一では、司法省の予算配分を巡り、激しく喧嘩した間柄で、その事もあり江藤についての評価は極めて辛いものになっています。
「江藤さんは、なんでもよく知っていて、私もその博識には終始驚かされたものだ。しかし江藤さんは法律を学んだだけで礼を知らないから、自分がどれだけ他人に迷惑を掛けようと無頓着であった。その上、何が何でも自分の意見を通そうとして三百理屈を並べたりしたものだから、佐賀の乱のような末路を辿られたんじゃあなかろうか?」
この中で渋沢は世の中に多い、学問はあっても礼儀を知らないで周囲に迷惑をかける経営者や政治家が多い事を嘆いていますが、渋沢にとっては江藤もそのような頭は良いけど礼儀を知らない人の1人だったようです。
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日本史ライターkawausoの独り言
以上、渋沢栄一の目から見た、幕末から明治の偉人の評価を紹介しました。経済人の渋沢から見ると大久保利通が財政オンチだったり、木戸孝允が綿密に人材配置を考える慎重な人物だったり、大隈重信に上手を取られて丸め込まれたり色々な事が分かり興味深いですね。
大久保と言うと金銭に淡泊で、自分名義で国の為に金を借り、死後借金を残した事が美談にされますが、渋沢から見れば、それも財政オンチゆえの失敗と映るのでしょうか?
参考:Wikipedia
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