2021年現在の紙幣の顔と言えば、一万円札の福沢諭吉です。
1984年に聖徳太子からバトンタッチしたのですが、その福沢諭吉も2024年の上半期には渋沢栄一へとバトンタッチされる事になりました。しかし、学問のススメで有名な福沢諭吉と違い、渋沢栄一って誰?という方も多いでしょう。
そこで、今回は渋沢栄一が紙幣になった経緯について解説します。
渋沢栄一のお札
では、どうして渋沢栄一が一万円札の顔に選ばれたのでしょうか?
その理由は、渋沢栄一が幕末にパリ万博に幕府代表として参加し、そこで証券取引所や銀行の仕組みを見て感銘を受け、日本に帰国後、証券取引所と銀行の仕組みを導入して普及させ、現在、当たり前に存在する日本の経済の仕組みを導入したのが渋沢栄一だからです。
金融と経済に尽力した偉人なので新紙幣になるのは理に適っていますね。
関連記事:【お札をなめると危険な理由】お札と硬貨の汚染細菌を調査
なぜ渋沢栄一が一万円札に起用されたの?
しかし、日本の経済人と言えば、渋沢栄一だけには限らないように思います。その中でどうして、政府は渋沢栄一を選んだのでしょうか?
麻生財務大臣によると新紙幣の顔は明治以降の文化人から選ぶ前例があるとした上で、
- 鮮明な写真が残っている
- 品格がある
- 国民に親しまれている
こちらの三点を満たした人物として渋沢栄一を選んだとしています。
渋沢栄一の一万円札はいつから
渋沢栄一を一万円札の顔にした新紙幣は、2024年の上半期には登場するようです。
ちなみに変わるのは福沢諭吉だけではなく、五千円の樋口一葉は明治時代の女子教育の先駆者、津田梅子に、千円札は野口英世から細菌学者で感染症の研究者「近代日本医学の父」と呼ばれる北里柴三郎に変わります。
渋沢栄一とはだれなの?
渋沢栄一は1840年武蔵国血洗島、現在の埼玉県深谷市に農民の子として誕生しました。
しかし、実家は藍玉の製造や養蚕を営む裕福な商家であり、栄一はここで経済感覚を磨き、ペリー来航後は、尊王攘夷の志士として倒幕運動に参加します。
ところが、その後一橋慶喜の知遇を得て武士に取り立てを受け、さらに慶喜が征夷大将軍に就任した事で、あれほど憎悪した幕臣になってしまいました。
失意の栄一ですが、その後パリ万国博覧会に幕府の随員の1人として参加、その後、欧州各国を見学し、進んだ金融システムや科学・軍事力を目のあたりにし攘夷の不可能を悟ります。
こうして江戸に帰る栄一ですが、その頃幕府は崩壊し幕臣としての栄一の地位も消滅していました。それでも栄一は諦めず、フランスで学んだ銀行と証券取引所のシステムを日本に導入し、産業を起こして日本を豊かにするため明治政府に仕官。
その後、下野して民間の実業家として、500以上の企業の創設に関与し、600もの社会事業を興します。1909年に70歳を迎え、ほとんどの役職を去り実業界から引退するも、その後も慈善活動を続け、明治、大正、昭和を生きて1931年に92歳で大往生を遂げました。
財務省による渋沢栄一紙幣の小雑学
財務省のホームページによると、新しい日本銀行券、一万円、五千円、千円は、新たな偽造防止対策として、
・高精細すき入れ
現行の「すき入れ」に加えて、新たに高精細なすき入れ模様を導入。
・最先端技術を用いたホログラム
一万円券と五千円券には、ストライプタイプのホログラムを導入。千円券にはパッチタイプのホログラムを導入。
さらにユニバーサルデザインとして
- 指の感触で識別できるマーク形状変更及び券種ごとの配置変更。
- 額面文字の大型化(表・裏)
- ホログラム及びすき入れ位置を券種ごとに変更。
これらの変更を加え、防犯に強くすべての人に扱いやすい紙幣になるようです。偽造防止の一環で、渋沢栄一の肖像がホログラムで動くみたいですが、昔懐かしいビックリマンのホログラムシールを思い出しますね。
【次のページに続きます】