野口英世は左手の火傷で世界史に名を刻む偉人になった!英世を苦しめ飛躍させた手の火傷とは?

06/08/2022


野口英世

 

野口英世(のぐちひでよ)といえば、戦前戦後の日本人で知らない人はいない偉人でした。

 

その理由は英世が福島の貧困家庭に育ち、幼い頃に囲炉裏(いろり)で左手を大火傷し障害が残ったにもかかわらず、学友や恩師の尽力で手術して手を治療し、医学の素晴らしさに感動して苦学の末に医学者になった立志伝(りっしでん)が有名で教科書にも掲載されたからです。

 

今回は、野口英世の最初のハンディとなり、医者を志す切っ掛けになった手の火傷について解説します。

 

 

 

1歳の時に囲炉裏に落ちて左手を大火傷した野口英世

戦国時代の武家屋敷b

 

野口英世は本名を野口清作(のぐちせいさく)と言い、明治9年(1876年)福島県耶麻郡三ッ和村字三城潟(ふくしまけん・やまぐん・みつわむら・あざ・さんじょうがた)の農家に生まれました。野口家は代々貧しく、父の佐代助は郵便配達人の仕事をしていましたが、酒好きの怠け者で、野口家の家計は真面目な働き者である母のシカが切り盛りしている状態だったそうです。

 

毎日毎日、働きづめのシカは1歳の清作にかまってやれず野良仕事に出ていましたが、それが思わぬ悲劇に繋がりました。ハイハイできるようになった清作が誰もいない囲炉裏のそばを歩き回り、誤って落ちて左手を囲炉裏の火に突っ込んでしまったのです。

 

大声で泣く清作に気づいたシカは急いで清作を囲炉裏から拾い上げますが、その時には清作の左手はヒドイ火傷を負っていました。しかし貧乏の悲しさ、野口家には病院に診てもらうお金はなく、自然治癒(しぜんちゆ)に任せてしまったので清作の左手の指は癒着(ゆちゃくし)し天秤棒のようになり、周囲の子供たちは「てんぼう」と呼んで清作をイジメます。

 

清作はわんぱく坊主で相撲も強かったそうですが、左手の事は清作にとって一生続くコンプレックスになってしまいました。

 

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はじめての明治時代

 

 

自責の念に駆られたシカは清作に勉強させる

東京大学 kawausoさん

 

物を握るのも難しい清作の左手、これでは農家を継がせる事は難しいと考えたシカは、頭が良かった清作に学問をさせようと、これまで以上に働き清作の学費をねん出します。

 

そこには、自分の不注意で清作に後遺症を負わせてしまったという母としての自責の念がありました。清作も母譲りの勤勉で負けず嫌いな性格と偉くなって母に楽をさせたい一心で、学校では常にトップクラスの成績を出していました。

 

英世の少年時代は建艦競争が続いていた。

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ながら日本史

 

 

1つの作文が清作の運命を変える

 

猪苗代(いなわしろ)高等小学校時代、清作は「ぼくの左手」という作文を書いて教室で発表します。それは満足にモノを掴む事も出来ない左手に対する複雑な思いを吐露したものでした。作文は、清作をてんぼうとからかっていた学友や恩師の心に強く刺さります。

 

特に清作の恩師小林栄は当時、富裕層しか入学しなかった猪苗代高等小学校に清作を入学させ学費を自らも一部負担するなど清作を支援していましたが、作文を聞いてからは清作の左手をきっと治してやろうと強く決意し、広く呼び掛けて募金をつのり、明治25年(1889年)清作が13歳の時、会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師、渡辺鼎(わたなべかなえ)の手で手術がおこなわれます。

 

手術の結果、清作の左手の指は完全にではありませんが、動かす事が出来るようになります。清作は自分を苦しめ続けた左手の火傷を治した医学の力に感銘を受け、自らも医師になり苦しんでいる人々を救いたいと考えるようになりました。

 

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いだてん

 

 

野口英世改名の仰天理由

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清作が英世と名前を変えたのは明治31年(1898年)の事で、世に優れる人になるという意味で恩師の小林栄につけてもらいました。

 

しかし、英世の改名理由はとんでもないもので、当時、坪内逍遥(つぼうちしょうよう)が連載していた小説、当世書生気質(とうせしょせいかたぎ)の主人公が野々口清作という名前だったのですが、この主人公が言葉で人を騙して借金を重ね、遊郭で散財する自堕落な男で行動パターンが英世にそっくりでした。

 

英世も酒好きで金銭にだらしがない父の佐代助(さよすけ)に似て博打(ばくち)好きの女好き、おまけに破壊的な放蕩癖(ほうとうへき)もあったので、「今後、有名になって野々口清作が俺のモデルと勘違いされたら困る」と改名してしまったのです。

 

英世の浪費癖は彼にかかわった人で知らない者がないほどでしたから、有名になって、そういう悪評が世間に広まる事を恐れたのでしょう。

 

英世が改名した頃、日本はロシアと戦う寸前

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細菌学者になったのも左手のお陰

軍艦(明治時代)

 

医者を志した英世ですが、医師免許を取得し開業医になっても貧しいので病院を経営する資金がなく、またプライドが高い英世は不自由な左手を患者に見せる事を嫌がりました。

 

そこで患者を診る事がなく医学に関係する事として細菌学の研究者になって人類を苦しめる伝染病の根絶に尽力しようと考え、血清療法の開発などで世界的な権威だった北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)が所長を務める伝染病研究所に語学の能力を買われて入所します。

 

ここでも野口は放蕩癖が治らず、金に困って伝染病研究所の蔵書を売り飛ばした容疑で研究所内勤務から外されますが、北里所長の恩情で横浜港検疫所検疫官補(よこはまこうけんえきしょ・けんえきかんほ)となり、熱心な検疫官としての仕事ぶりを政府に認められ、中国でのペスト対策のために政府の要請を受けて組織された国際防疫班に選ばれるなどして、細菌学の道に進んでいきます。

 

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梅毒スピロヘータの研究で世界的に有名になる野口英世

ガレオン船(世界史)

 

野口英世が最初に世界的に有名になったのは、梅毒(ばいどく)スピロヘータの研究でした。梅毒は15世紀から大航海時代を経て、世界中に蔓延し始めた性感染症であり、現在でも予防薬はなく、発症後のペニシリン系の抗菌薬の投与が唯一の治療法です。

 

英世は大正2年(1913年)梅毒症状を引き起こすスピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆(せきずいろう)の患者の脳病理組織において確認しこの病気と梅毒との関連を明らかにしています。これは、生理疾患と精神疾患の同質性を初めて示したもので、英世の名前が世界に知られる切っ掛けとなりました。

 

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今回は野口英世の手の火傷について解説しました。

 

英世に生涯コンプレックスを与え、運命を変えてしまった左手の火傷ですが、もし、英世が火傷せずに成長したら農家の長男として家を継ぎ、医者になる事なく終わり教科書に載る事もなかったでしょう。

 

左手の火傷こそは、偉人野口英世を産んだ最初の切っ掛けだったのです。

 

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カワウソ編集長

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