宮城県の戦国時代はどんなだった?【ご当地戦国特集】

07/04/2021


本能寺の変で「是非に及ばず」と切り替えの早い織田信長b

 

大河ドラマ「麒麟がくる」は本能寺の変を迎えて大盛り上がりで終了しました。しかし、戦国の映画といえば大半は京都周辺の畿内、そうでない場合でもメジャーな戦国大名が多い東海や関東ばかりにスポットがあたりがちです。

 

でも、戦国時代は日本中が戦争していたのであり、地方にだって戦国時代はあったのです。そこで、ほのぼの日本史は、ご当地戦国特集として今回は宮城県の戦国時代を解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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蝦夷と大和朝廷の対峙する前線基地

モンゴル兵(蒙古兵)のモブ(兵士)

 

宮城県は律令制で陸奥国(むつのくに)に属しています。陸奥国は大きく、青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県の北東部が含まれました。

 

現在の宮城県の地には古墳時代からヤマト王権の影響力が及んでおり、最初の陸奥国府と推定される官衙は現在の仙台市太白区に設置。多賀城も築城され、奥六郡(おくろぐん)と対峙する軍事と政治の拠点化が進みました。

 

奈良時代の末期から平安時代の初期にかけ、仙台平野北部・三陸沿岸にいた蝦夷(えみし)がたびたび大和朝廷の拠点を襲撃し38年戦争が勃発します。伊治を拠点とする伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)は、陸奥国蝦夷の族長で大和朝廷に帰属し官位を受けて多賀城に出仕していましたが、大和官僚による蝦夷への差別に怒り、反乱を起こして多賀城を滅ぼしました。

 

公家同士の会議(モブ)

 

これを契機に胆沢(いさわ)のアテルイが蜂起して大和朝廷との戦争が始まりますが、征夷大将軍、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に討たれて反乱は鎮圧されます。

 

しかし、大和朝廷の支配下に置かれた蝦夷は俘囚(ふしゅう)として結束し、11世紀半ばには北上平野の俘囚主、奥州安倍氏が仙台平野に勢力を拡大し多賀城の国司と対決します。

 

蒙古兵に先駆けをする竹崎季長

 

大和朝廷は源頼義(みなもとのよりよし)を派遣しますが仙台平野の郡司は中立を守り、苦戦した頼義は仙北の俘囚主清原氏の参戦でようやく安倍氏を滅ぼしました。

 

陸奥の支配者になった清原氏ですが、その後内部分裂を起こして後三年の役が起きます。ここで出陣した源義家(みなもとのよしいえ)に与した清原清衡(きよはらのきよひら)が安倍氏を滅ぼして藤原清衡と改名し、平泉に拠点を置き、奥州藤原氏として1世紀の間在地勢力の間に君臨します。

 

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留守氏、次いで大崎氏が宮城県に君臨

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

鎌倉時代初期になると、奥州藤原氏は鎌倉に幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)により討伐され滅亡。この時、頼朝に従った葛西氏などの関東地方の有力氏族や武士が守護、地頭として現在の宮城県域に多く入植しました。

 

そして関東武士の中で、多賀城の留守所長官として陸奥国留守職に任じられたのが、伊沢家景(いさわいえかげ)で、家景の子孫は留守氏(るすし)を名乗るようになり、代々が陸奥留守職に任じられます。

 

室町時代に入ると、南北朝の争いで宮城県の在地勢力も分裂しますが、足利一族の斯波氏が奥州探題(おうしゅうたんだい)を称して多賀城に入城すると争いは沈静化しました。

 

やがて斯波氏(しばし)傍流(ぼうりゅう)である大崎氏が奥州管領職に就任。しかし、元中9年(1392年)に奥州・出羽両国が鎌倉幕府の直轄地となり、大崎氏の奥州管領権は制限されます。大崎氏は奥州の抑えとして応永(おうえい)年(1400年)には奥州探題となりました。

 

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はじめての戦国時代

 

戦国時代 伊達氏が宮城県を制す

伊達政宗

 

戦国時代になると、南東北の奥羽山脈西側に連なる盆地郡都に拠点を置く在地武将の勢力が強くなり大崎氏の勢力が後退。在地勢力で抗争が繰り返された末、最終的に伊達郡(だてぐん)信夫郡(しのぶぐん)置賜郡(おきたまぐん)を本拠地とする伊達氏が勝利しました。

 

伊達氏は源頼朝の奥州合戦で功を立てて伊達郡に封じられた関東武士の末裔で鎌倉時代から伊達郡を中心に勢力を拡大し、奥州の覇者になります。

 

天文(てんぶん)の乱で、一時伊達氏は衰退しますが、安土桃山時代になると名将伊達政宗(だてまさむね)が登場。常陸(ひたち)佐竹義重(さたけよししげ)や会津の蘆名氏(あしなし)に勝利して領土を拡大しました。しかし、その頃には東北以南で戦国時代はほぼ終わり、天下人豊臣秀吉(とよとみひでよし)が関東征伐の爪を研いでいたのです。

 

晩年奇行が多い豊臣秀吉

 

政宗は最初、秀吉の小田原攻め参陣や惣無事令(そうぶじれい)を無視しますが、結局は圧力に屈して軍門に降りました。その代償は大きく、秀吉の仕置により征服した会津地方などを奪い取られます。

 

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伊達政宗、葛西大崎一揆を扇動しやらかす

戦場で活躍する伊達政宗

 

ただ、秀吉の強引な奥州仕置で改易の()き目にあった葛西氏や大崎氏の旧臣は納得せず、不満を蓄積、政宗はこれを密かに扇動し葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)を起こさせます。

 

ところが、政宗の扇動は蒲生氏郷(がもううじさと)に露見。政宗は秀吉から一揆鎮圧を命じられました。

 

非常に極悪な表情をしている豊臣秀吉

 

一揆の鎮圧後、秀吉は政宗の領地をそれまでの山形県南部、福島県、宮城県南部から宮城県及び岩手県南部と移し北へ追いやります。

 

政宗はやむなく玉造郡の岩出山城(いわでやまじょう)を居城とし新しい領地の統治にあたりました。秀吉が死ぬと伊達政宗は徳川家康と親交を結び、関ケ原の戦いでも東軍に参加。伊達氏は戦国時代を生き残る事に成功します。

 

仙台城

 

政宗は天然の要害の青葉山に築城し仙台城を構えて居城とし、堂々62万石の大大名として東北で圧倒的な存在感を放ちました。その後も政宗は遣欧使節(けんおうしせつ)を派遣しスペインと貿易&軍事同盟を結ぼうとするなど、天下への野心を捨てませんでしたが、徳川の政治体制が揺るがない事を悟ると諦めます。

 

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奥羽越列藩同盟の盟主となるが…

幕末 大砲発射

 

伊達氏は奥州の名門として宇和島に分家の伊達氏を出すなど重んじられます。幕末になると、外国船が出没する蝦夷ヶ島(えぞがしま)の警備を担うなどしますが、幕末にはこれという人材が出る事もなく、戊辰戦争(ぼしんせんそう)では奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)の盟主となります。

 

幕末77-14_錦の御旗

 

当初の計画では孝明天皇(こうめいてんのう)の弟輪王寺宮(りんのうじのみや)を擁立し東武皇帝(とうぶこうてい)として即位させ、仙台藩主伊達義邦(だてよしくに)が征夷大将軍に任命される計画だったようですが、その前に新政府軍に降伏しました。

 

賊軍となった仙台藩は石高(こくだか)を半分以下に減らされ、家臣を養えなくなった伊達氏は蝦夷地の入植に着手し、明治政府と共同で札幌市を開拓するなど北海道の歴史に名前を残します。

 

明治政府が誕生すると、宮城県は中央集権体制に組み込まれますが、東北支配の政治拠点として重視された仙台市を中心に発展。

 

大日本帝国陸軍第二師団が置かれ、東北帝国大学など高等教育機関が設立されます。仙台藩を前身とする仙台県は廃藩置県後も存続し、旧領である登米県(とめけん)角田県(かくだけん)の編入後に宮城県に改称し、磐前県(いわさきけん)磐井県(いわいけん)との管轄区域の変更を経て現在の県域が確定しました。

 

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三国同盟を潰したあの男

 

 

戦国時代ライターkawausoの一言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

宮城県の戦国時代と言えば、何と言っても奥州の覇者伊達政宗を外す事は出来ないですね。東北の戦国大名では断トツに領土を広げた政宗ですが、小田原征伐では豊臣秀吉に逆らい、奥州仕置で折角奪った会津を削られてしまう挫折を味わいました。

 

さらに懲りずに葛西大崎一揆を焚きつけたのがバレ、秀吉に一揆鎮圧を命じられた上に領地を北に移動させられた悪ガキな政宗ですが、それでも改易されない辺りは、秀吉も家康も奥州は政宗でないと纏まらないと一目置いていたのでしょうか?

 

参考文献:47都道府県の歴史と地理がわかる事典 GS幻冬舎新書

 

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カワウソ編集長

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