日本全体が戦乱で揺れた戦国時代、しかし、映画やドラマの舞台になるのはどれも畿内や東海の戦国大名ばかりとお嘆きの戦国ファンの皆さん。ほのぼの日本史では、そんな置き去りにされがちな地方の戦国時代について特集します。
今回は東北、岩手県の戦国時代について解説してみましょう。
大和朝廷に抵抗した蝦夷アテルイ・安倍氏
陸奥国である岩手県は律令国家の形成期である7世紀後半は大和朝廷の支配には組み込まれておらず、朝廷にとっては征伐の対象でした。
8世紀末の38年戦争では胆沢に蝦夷の軍事指導者アテルイが登場して大和朝廷に抵抗しますが、征夷大将軍、坂上田村麻呂によって滅ぼされます。
その後、北上川流域は朝廷が掌握し、蝦夷の多くが全国へ強制移住させられました。残された蝦夷は俘囚として支配体制に組み込まれ同時に胆沢には関東地方から柵戸として入植者が入ります。
しかし、11世紀までには俘囚をまとめた現地勢力の安倍氏が台頭。奥六郡(岩手県内陸部)を拠点として糠部(青森県東部)から亘理・伊具(宮城県南部)にいたる広大な領域に勢力を張り半独立の動きを見せます。
威勢を誇った安倍氏ですが、危機意識を持った朝廷は源頼義率いる大和朝廷軍を派遣。この朝廷軍に味方した出羽の豪族、清原氏により奮闘の末に滅亡します(前九年の役)
さらにその清原氏も一族の内紛から後三年の役で滅亡し、滅ぼされた安倍氏の血を引く藤原清衡が江刺郡豊田館から磐井郡平泉に拠点を移し奥州を掌握しました。
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南部氏と福島県の伊達氏が台頭
平泉に拠点を置き百年間も繁栄した奥州藤原氏ですが、源頼朝に攻略されて滅亡します。その後、鎌倉時代の岩手は甲斐国南部の河内地方を領有した甲斐源氏の南部氏が八戸周辺に移住し、現在の青森県から岩手県北、及び秋田県鹿角地方まで勢力を拡大しました。
一方で沿岸部では、頼朝の討伐軍に参加した斯波氏、稗貫氏、阿曽沼氏、和賀氏など関東御家人が割拠。県南部は葛西氏、留守氏が有力でしたが、次第に福島県伊達郡に根城を置く伊達氏の勢力が浸透。室町時代に入ると葛西氏、留守氏は事実上伊達氏の支配下に置かれました。
秀吉の奥州仕置軍で戦国が突然終わる
戦国時代に入り、伊達家が天文の乱で分裂して弱体化すると葛西氏・留守氏は再び独立し奥州の覇者伊達政宗と勢力争いを繰り広げます。
しかし、ここでより強大な敵が東北大名の前に出現します。織田信長の後継者として天下人となり、九州、四国を平定してきた豊臣秀吉でした。秀吉は軍事力を背景に小田原征伐に従わなかった東北大名に懲罰を開始します。
奥州仕置と呼ばれるこの措置で、石川氏、江刺氏、葛西氏、大崎氏、和賀氏、稗貫氏、黒川氏、田村氏、白河氏などの東北大名が改易。小田原攻めに遅れ、惣無事令に違反した伊達政宗や秋田実季、小野寺義直は減封に処されました。
逆に秀吉に早くから忠誠を尽くした最上義光、相馬義胤、秋田実季、津軽為信、戸沢光盛、南部信直の所領については安堵。さらに監視役として蒲生氏郷に蘆名氏の旧領地会津黒川等、合計92万石を与えています。
同じ頃、岩手県北部では、安倍氏の末裔である一方井氏を母に持つ南部氏の南部信直が、逸早く秀吉に取り入って勢力を拡大。南部所属の棟梁として振る舞うようになり反感を持った九戸南部氏の九戸政実と争います。
南部信直はこれに対し、秀吉軍を引き入れて九戸政実を滅ぼしました。こうして、大浦氏以外の南部氏諸家を統一した信直は盛岡に拠点を移して勢力を確立します。
岩手県は北を南部氏、南を伊達氏が抑える形になりますが強引な奥州仕置で、大規模な一揆が頻発するなど、突然終わった戦国時代の反動も大きかったのです。
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江戸時代の岩手県
江戸時代に入ると、岩手県の南部は仙台藩の伊達氏と一関藩田村氏、水沢には留守氏(水沢伊達氏)が置かれ、県北部は盛岡藩の南部氏の支配下に入りました。
その後戊辰戦争では、仙台藩と盛岡藩が奥羽越列藩同盟の中心となりますが新政府軍に敗退。廃藩置県で当初、盛岡県となりますが、賊軍だったためにすぐに県名を奪われ、岩手県と改称されて現在に至っています。
明治維新では勝馬に乗れなかった岩手県ですが、その反発心からか、原敬や後藤新平のような政治家、米内光政のような海軍軍人、新渡戸稲造、石川啄木、宮沢賢治や柳田国男など、多くの文化人を輩出しています。
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戦国時代ライターkawausoの一言
東北の戦国時代は伊達家のお家騒動である天文の乱からだそうです。それから40年余り、騒乱を繰り広げている途中に、いきなり東海・北陸から南を手中に収めた豊臣秀吉がやってきて「はい合戦おしまい!わしに従え!じゃないと滅ぼす」で戦国が突如終わるというのは、当時の戦国大名はどのように感じたんでしょうかね?
もう少し完全燃焼させてくれよーと思ったか、助かったこれで滅亡しないで済むと安堵したか、それは大名により様々でしょうね。
参考文献:47都道府県の歴史と地理が分かる事典 GS幻冬舎新書
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