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遣唐使が廃止されたのは国際交流が盛んになったからだった!

07/08/2021


遣唐船(奈良時代)

 

日本史のテストで894(白紙)に戻そう遣唐使(けんとうし)で知られる遣唐使の廃止。

 

従来は、当時、唐王朝が騒乱状態となり遣唐使の身が危険になった事や、文化を学び終えて、リスクを冒してまで遣唐船を派遣する必要がなくなり菅原道真(すがわらのみちざね)の建白で廃止されたと言われてきました。

 

しかし最近では、民間交流が盛んになり政府が船を出さなくても大陸の文物を輸入できるようになった事が廃止の大きな理由だとも言われているのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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海商の活躍が遣唐使を終わらせた

三国志に出てくる海賊達

 

8世紀の段階では、外交使節の往来に付随する大陸の物品の到来が、日本にもたらされる舶来品の主流で、遣唐使のほかにも朝鮮半島の新羅(しらぎ)の外交使節が異国の文物をもたらすケースもありました。

 

しかし、9世紀になると新羅との外交は途絶え機能しなくなり、遣唐使もそれまで15年に一度程度の往来があったものが、三十年に一度と交流の頻度が低下します。では、舶来品の物流も低調になったのかというとそれは違いました。

 

9世紀頃から、東アジアには国際的に活躍する海商が出現します。彼らは外交使節と違い商品の売買が主なので、活発にアジアの産物の輸入や売却を繰り返しました。このような海商の働きは、必然的に外交使節の役割を低下させます。

 

特に遣唐使は、遭難や沈没が多いリスクが高い事業で、失敗すれば有能な人材を多く失いました。ですので海商が売りに来る舶来品を日本の港で買えるなら、大和朝廷は無理してまで遣唐使を派遣する必要はありませんでした。

 

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唐王朝の規制が緩み中国商人が海外進出

西遊記はどうやって誕生したの

 

海商の台頭の背景には、8世紀半ばの安史(あんし)の乱がありました。玄宗皇帝(げんそうこうてい)に寵愛を受けた節度使、安禄山(あんろくざん)の反乱ですが、この反乱を切っ掛けに唐王朝は衰えていきます。

 

元々唐王朝は、シルクロードの商人が長安にくるのは許しても、中国商人が外に出る事を許していませんでした。しかし安史の乱で政府の規制が緩んだ事で、中国商人が国外に出る歯止めが消滅しました。

洛陽城

 

これにより政治秩序は弱体化しますが、中国商人は、東南アジア各地に中国人街を築いて商業に従事するようになり、海の商人を狙って海賊や、故郷を離れた戦争難民の移動が活発化しました。朝鮮半島の新羅でも同時期に国内が乱れ、935年には新羅が滅亡。こうして、中国に活路を見出した人々が唐の沿岸部に新羅人街を造ります。

 

唐王朝の衰えは、国の垣根を越えて自由にアジアを往来する海商の活動活発化をもたらし、かえって経済活動が頻繁になる結果を生みました。

 

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元寇

 

遣唐使の廃止は海賊を恐れた理由も

三国志に出てくる海賊達 張伯路

 

894年の遣唐使の廃止には、当時活発になっていた海賊を心配してという理由もあります。唐や新羅の滅亡と歩調を合わせるように、日本でも公地公民制が崩れ、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)に基づいて開墾が奨励された結果として、荘園が日本各地に成立。

 

租税を逃れるために、庶民が大寺院や貴族に開墾地を寄進する傾向が強まり、貴族や大寺院は不輸・不入の権を駆使して朝廷への納税を回避しました。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

これにより朝廷の力は弱体化し地方への支配力が低下、特に山陽や四国の瀬戸内海に面する国司や九州の大宰府付近の国司などの実力者は、海外の文物を求めて海運に力を入れ海賊とも癒着していたのです。

 

10世紀には、藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱のような有名な海賊の跳梁(ちょうりょう)も記録されていますが、このように日本周辺の海は海賊の跋扈する時代になっていました。

 

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国際秩序の再編

京都御所

 

しかし、民間貿易の活発化は、海賊の横行以外にも有難くない側面をもっていました。民間海商を中心とする交易は、状況によっては輸入物品の高騰や、それに起因する経済の混乱を招く恐れもあります。

 

このような弊害を避けるために、朝廷は延喜(えんぎ)十一年制(年紀制)と呼ばれる制度を造り、一度日本に来た海商は十年余り、間隔を置かねばならないとしました。こうした措置には、海商による貿易の独占を防ぎ、同時に貿易の野放図な活発化により国の秩序が乱れて不安定化することを防ぐ政治的な意図があります。

 

つまり、遣唐使を廃止した結果として大陸からの文物の流入が途絶し国風文化が成立したというのは、当時の国際社会の動きを見ると正しくない事になります。

オンライン授業の講師を務めるkawauso編集長

 

kawa註近年まで年紀制により海商が日本に再来航が認められるには、数年の間隔を置くと解釈されていました。

それは、日本に長期滞在した海商が帰国し再度来航するまで数年の期間しかなかったためです。

しかし平安時代の対外関係史に詳しい渡邊誠氏の研究によると、当時の東アジアでは年月のカウントは海商が帰国してからではなく、入国を許可された(安置)時から数えるのが普通であり、それに照らすと海商は6~7年日本に滞在し、その後帰国して数年で再来航しているので、十年以上は経過していると考えられ、大和朝廷は渤海使に対してそうしたように十二年一貢の縛りをかけていた節があるそうです。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

遣唐使廃止といえば、唐王朝の混乱により遣唐使派遣が危険になったことや、中国文明を吸収しおえた事で国風文化が発展し、特に遣唐使派遣の必要性が無くなったという事が強調されました。

 

しかし、最近の研究では、海賊の横行による航海の危険はあるものの、国家の規制が緩んだ事で、逆に民間の海商が急成長し交易は盛んだったのです。

 

参考文献:新説の日本史 SB新書

 

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大和朝廷

 

 

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カワウソ編集長

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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