荘園って何?日本史最難解制度をかなり分かりやすく解説してみた!


荘園に逃げ込む鉄の職工達

 

荘園(しょうえん)墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が出された743年頃から豊臣秀吉の太閤検地(たいこうけんち)実施の16世紀末まで、850年ほども続いた土地制度です。日本中世から近世まで貫いて継続した荘園ですが時代により複雑な変遷を経るので学生時代理解に苦しんだ人も多いのではないでしょうか?

 

そこで、ほのぼの日本史では荘園を限りなくかみ砕き分かりやすく解説してみます。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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荘園以前は口分田

聖徳太子

 

では、荘園を解説する為に荘園以前の土地制度について解説します。日本に天皇を頂点とする統一王朝が出来る前、各地の民衆は土地の支配者に従属して税金を支払っていました。

 

しかし、飛鳥時代に入ると白村江(はくそんこう)の戦いで大和の豪族連合軍が唐の新羅の連合軍に大敗するなどして、各地の豪族の力を抑えて天皇に権限を集中する必要性が生まれます。

朝廷(天皇)

 

天智天皇は豪族が支配していた土地と人民を天皇が直接支配する公地公民制(こうちこうみんせい)を発布し、6歳以上の人民に土地を貸し与える班田収授法(はんでんしゅじゅほう)を決定しました。

 

公地公民制も班田収授法も、実施は天智天皇の時代ではなく娘の持統天皇(じとうてんのう)の時代が有力ですが、ともあれ班田収授法により満六歳以上の男子には12アール、女子にはその2/3の土地が与えられ、収穫した農作物の3%が税として朝廷に納められるようになります。

 

こうして分け与えられる土地が口分田(くぶんでん)で荘園の前段階でした。

 

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税金が重く次々に逃げ出す農民

悪徳坊主に搾取される貧しい農民

 

こうして開始された班田収授法ですが、口分田を与えられた農民には3%の税以外にも、収穫時に50%の利子を上乗せして支払わないといけない利稲(りとう)や成人男性には(よう)(布)調(ちょう)(特産物)雑徭(ぞうよう)(労働力奉仕)が課せられた上、1/4程度の男子は徴兵され国防の任務に就く事が義務付けられます。

 

農民は過重な税負担で口分田を捨てて逃げ、地方の有力者や貴族に匿われる者が続出。さらに増加する人口に口分田の配布が追い付かないという行政能力の未熟さも露呈します。

 

こうして、当初予想した税収が朝廷にもたらされない事態になり歳入(ざいにゅう)が激減して公共事業が停滞、兵士の士気も低下し大和朝廷は破産回避の為に打開策を考える必要に迫られます。

 

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大和朝廷

 

 

班田収授法を緩和し土地所有を認める

京都御所

 

西暦722年、朝廷は百万町歩(ひゃくまんちょうぶ)の開墾計画を立てます。これは、農民に農具と10日分の食糧を与えて耕作させ農地を百万町歩増やすという、まるで北朝鮮のような人海戦術ですが、そもそも当時の総耕作地の面積が88万町歩しかないのに、百万町歩は土台無理な話であっさり頓挫(とんざ)しました。

 

翌年朝廷は、三世一身法を発布します。

 

これは朝廷が保有する灌漑施設(かんがいしせつ)を利用して開墾(かいこん)した者には一代に限り土地の私有を認め、灌漑を自ら作り開墾した者には、親、子、孫の三代の土地私有を認めるという班田収授法の緩和策でした。

 

しかし、これも土地の返還時期が近づくと農民が耕作の意欲を無くし農地が荒れ果て効果は上がりません。こうして、西暦743年朝廷は「墾田永年私財法」を発布し、自らが開墾した土地に私有を認める大幅な譲歩をします。

 

かくして土地は国家のモノで人民は土地を借り平等に耕すとした前提は大きく崩れ、土地を開墾して私有地とする事を認め社会格差を容認する荘園の前提条件が整いました。

 

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初期荘園の成立

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墾田永年私財法では、農民個人の開墾面積は制限されていた一方で、貴族や大寺院、地方豪族には広範囲な土地の開墾が認められていました。そこで、これらの人々は国司(こくし)郡司(ぐんじ)の協力を得ながら、農民や口分田を捨てて逃げてきた浮浪人を動員して大規模な開墾を実現させて大地主になります。

 

初期の開墾地は輸租田と言い、収穫物の一部を税金として朝廷に納めるものでしたので、墾田永年私財法により朝廷の税収は増加しました。

 

餓えた農民(水滸伝)

 

しかし、土地の私有で豊かになったのは、お金や権力で人を使って土地を大幅に開墾できた寺院や大貴族、豪族だけで口分田を捨てて逃げだした農民は初期荘園の小作人となり、収穫の20%という重税を納める貧しい身分に転落し、貧富の差が拡大していきます。

 

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不輸の権

五重塔(仏塔)仏教

 

奈良時代、国家鎮護(こっかちんご)の役割を持つ寺院は、朝廷の厚い保護を受け所有する土地の税金が免除されていました。これを不輸(ふゆ)の権と言います。

 

さらに、墾田永年私財法が発布されると寺院も大規模な開墾に着手しますが、当然、不輸の権は継続したままでした。

 

これに対し藤原氏のような大貴族は、「我々の田は輸租田(ゆそでん)なのに、なんで寺院だけ免税なんだ!不公平だ!自分達にも不輸の権を与えろ!」と騒ぎ貴族の荘園も無税にするように朝廷に圧力を掛けます。

 

公家同士の会議(モブ)

 

一方で朝廷も、重い税負担に悩む農民が口分田を放棄したり戸籍を誤魔化す事例が相次ぎ税収は激減。役人に支払う給与も滞るようになったので不輸の権を認めて、給料の代わりにする事を認めました。

 

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徴税請負人受領の誕生

貴族趣味な今川氏真(和歌)

 

朝廷は全国各地に国司という長官を派遣して土地から徴税していました。しかし、班田収授法が崩壊し戸籍もごまかしだらけになると、中央から派遣された役人では徴税が難しくなります。

 

そこで朝廷は方針を転換し、一定額の税金を納めてくれれば一定期間の統治を一任すると国司の権限を大幅に強化しました。これを受け国司は自分の配下である、(かみ)(すけ)(じょう)(さかん)から税を取り立てる才覚や腕力がある者を受領(ずりょう)に任命して任国の統治を任せる事にします。

 

受領は行政官ではなく徴税請負人なので朝廷に納入した分以上の作物を自分の取り分に出来ました。

 

騒いでいる公家

 

そこで、貪欲に搾取(さくしゅ)して利益を得ようとして農民を苦しめる受領が多かったようです。朝廷には横暴な受領に対する農民の訴えが次々と寄せられますが、受領なしには徴税も満足に出来ない朝廷に問題を抜本的に解決する術はありませんでした。

 

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田堵が開発領主となる

吉田兼見

 

受領が成立した頃、地方でも田堵と呼ばれる有力農民が台頭していました。かれらは朝廷から国守として赴任して任期が切れた後も都に帰らずに土着した中級から下級の役人や、古代の郡司の子孫で、地方豪族と姻戚関係を結んで勢力を拡大し、私兵団まで保有する実力者です。

 

受領は、このような田堵と協力関係を結び、一定期間土地の耕作を請け負わせて税金を徴収し利益を田堵と折半しました。この態勢を負名体制(ふみょうたいせい)と言います。

 

田堵が受領に管理を任された田を名田(みょうでん)と言い、受領は口分田を集めて名田とし税金の徴収をしやすくしていました。田堵は、名田の税金の徴収を請け負うので負名体制と言うのです。

 

このやりかたは便利なので受領は自己の保有する荘園も田堵に管理させるようになり、口分田と荘園の境界線は一層曖昧になっていきました。

 

名古屋城

 

ちなみに田堵が国衙(こくが)(朝廷)に納める税金を官物(かんぶつ)と言い、田堵が荘園領主(貴族・幕府・寺社)に納める税金を年貢(ねんぐ)と言います。幕府は荘園領主でもあったので、やがて官物という呼び名が廃れて年貢が税金を意味する言葉に変化したのですね。

 

田堵も受領と癒着する事で勢力を拡大。広大な私有地を保有する大名田堵(だいみょうたと)へ変化し、やがて独立傾向を強めて受領の命令に背くようになりました。

 

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寄進地系荘園の誕生

筒井順慶

 

受領の圧迫に対抗する為に大名田堵が接近したのが中央の藤原氏のような大貴族でした。受領は地方でどれだけ威張っていても中央では中下級の役人に過ぎません。

 

そこで、大名田堵は藤原氏や延暦寺(えんりゃくじ)興福寺(こうふくじ)のような大貴族、大寺院に荘園を寄進し、受領から保護してもらう代わりに租税の一部を納めるようになりました。このような荘園を寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)と呼びます。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

藤原氏のような大貴族は、もっと大名田堵から寄進を受けようと藤原氏の荘園に受領が踏みこむ事が出来ない不入(ふにゅう)の権を設定し、完全に国衙の権力から荘園を切り離します。

 

こうして完全無税を勝ち取った荘園は全国に拡大、藤原氏は空前の富を集める一方、大和朝廷の財政の基盤だった公地公民制も班田収授法も形骸化し崩壊しました。

 

かくして天智天皇から始まる大和朝廷による中央集権の試みは完全に頓挫。日本史は複数の権力者が入り組んで人民を支配する複線的な中世へと突入します。

 

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地方で台頭する武士

悪党(鎌倉)

 

寄進地系荘園の拡大を受け、902年醍醐天皇(だいごてんのう)は延喜の整理令を出し脱税目的の荘園の保有を禁止しようとします。しかし受領の多くは有力貴族と癒着しているので効果はほとんどありませんでした。

 

大名田堵の反撃を受けた受領は、自分達も藤原氏に土地を寄進して友好関係を築いていき、やがて都に在勤するようになり、荘園には目代(もくだい)と呼ばれる部下を派遣し徴税を任せるようになります。

 

これを遙任(ようにん)と言いますが、多くの受領が目代を派遣し地方から関心を失った結果、地方では目代を中心に在地で選ばれた在庁役人が地方政治を取り仕切るようになりました。

三国志のモブ 反乱

 

すでに給料を荘園から受け取るようになった貴族は地方の政治に関心がなく、興味があるのは利益を増やせる朝廷のポストばかりとなり地方の政治は大きく乱れていきます。

 

地方では各地の在庁官人(ざいちょうかんじん)大名田堵(だいみょうたと)が武装して他所の荘園を襲い併合するなどの騒乱が続き、この中から荘園を守る為に常時武装した武士の一団が登場。

蒙古兵に先駆けをする竹崎季長

 

やがて、賊を討伐して名を挙げたり、受領として藤原氏をしのぐ荘園領主になった上皇に取り入る伊勢平氏が台頭。保元(ほうげん)平治(へいじ)の乱を経て、伊勢平氏の平清盛(たいらのきよもり)太政大臣(だじょうだいじん)の位に上り貴族の時代は終わりを告げるのです。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

可能な限り、複雑な荘園制をわかりやすく解説しました。荘園は墾田永年私財法を切っ掛けに誕生し、班田収授法を崩壊に追い込む事で徴税請負人である受領を産み、受領と組んだ地方の実力者田堵が勢力を拡大して藤原氏のような大貴族と結びつきます。

 

やがて大名田堵は、不輸・不入権を獲得して中央集権制を倒して中世を産み出し、受領が地方に派遣した在庁官人が政治に関心を失った貴族をよそに荘園の吸収合併を繰り返して勢力を拡大。

 

それが源氏や平氏のような武士団となり受領や大名田堵として貴族に取り入り、保元・平治の乱を経て貴族を倒し日本の支配者になっていくのです。

 

土地の私的所有を認める荘園の誕生が土地と人民を天皇が一元支配する中央集権制を破壊し、地方の土地に根差して一所懸命を貫いた武士を誕生させ、日本の歴史を貴族から武士の時代に移行させた原動力になったと言えるでしょう。

 

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元寇

 

 

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