鎌倉、室町、江戸と中世から近世にかけての武家社会の棟梁が名乗る役職が、征夷大将軍です。将軍といえば、日本以外では職業軍人トップの官職に過ぎませんが日本では幕府の最高責任者で日本の統治者の認識ですね。
しかし元々の征夷大将軍は、他国と同様、幕府を開いて武家政治の棟梁のための役職ではありませんでした。ここでは本来の征夷大将軍ができた経緯と、やがて武家の棟梁の役職になっていた理由を解説します。
この記事の目次
元々の征夷大将軍とは?
征夷大将軍とは、元々は古代の朝廷における令外官のひとつです。令外官とは従来の律令制にとらわれない柔軟性のある臨時の官職でした。その中でも蝦夷を征討する役目を担う将軍のことです。
古代の日本では平安時代のころまで、主に東北地方では、まだ大和朝廷の完全なる支配下ではありません。この地には蝦夷と呼ぶ朝廷に従わない勢力がいました。そして朝廷は古くは日本武尊の時代より、度々軍を送って、勢力下におこうと遠征を繰り返しました。
これを蝦夷討伐事業と言います。元々、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などいう様々な役職がありました。ここで征夷大将軍という名前が登場するのは奈良末期です。
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平安時代までの征夷大将軍
初めて征夷大将軍と名前が登場するのが794年。同じ年の暮には平安京に遷都しました。初代征夷大将軍は大伴弟麻呂です。実は3年前に征夷大使に選ばれました。ところが弟麻呂は一旦辞表を提出。しかし朝廷は認めず改めて任命したのが、征夷大将軍です。
このときには、副将軍も任命されており、それは弟麻呂の後に征夷大将軍として名をはせる坂上田村麻呂です。田村麻呂は副将軍として蝦夷を征伐。その後田村麻呂は弟麻呂に変わり二代目の征夷大将軍に任命されました。そして4万の軍勢で平安京を発ち、蝦夷征討にむかいます。
そしてかたくなに抵抗していた蝦夷の首長・アテルイを屈服させることに成功。捕虜として京都に連れ帰り、東北が平定されました。その後文室綿麻呂が、三代目征夷大将軍として東北に兵を進めています。
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源頼朝は軍事貴族・河内源氏出身
三代の征夷大将軍により、東北が大和朝廷の支配下に収まると、臨時の官職である征夷大将軍は、以降任命されることなく平安末期を迎えます。そして次に征夷大将軍になったのは鎌倉幕府を開いた源頼朝です。頼朝は清和源氏の中でも武士団を形成した河内源氏の出身。
河内源氏は平安中期に武官貴族であった源満仲の三男、頼信により形成されました。そして河内国古市郡壷井(現、羽曳野市)を拠点として、代々の当主が勢力を拡大。前九年の役や後三年の役など戦乱の舞台で活躍します。
やがて東国武士をまとめる武家の棟梁の地位を築きました。ちなみに頼信を1世とすると7世の孫が頼朝です。
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平家・源義仲・奥州藤原に対抗するための頼朝の戦略
河内源氏源義朝の三男として生まれた頼朝は、平治の乱で敗れ伊豆に配流されますが、やがて復活。当時絶大な勢力を誇っていた平家の打倒を目指します。しかし朝廷に公認されたわけではありません。そこで頼朝は関東で独立した王権を構築します。
平家を先に京から追い払った源義仲は、征東大将軍に任じられていました。
そして奥州には100年間朝廷とは独立していた奥州藤原氏がいて、鎮守府将軍に任命されています。
そのような中で頼朝は大将軍と言う位を望むようになりました。やがて義仲、平家、そして奥州藤原のいずれも頼朝が制圧し、東国の頼朝政権が確立。この際、朝廷から提案された役職のうち頼朝が征夷大将軍を選んだので任命されました。
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奥州藤原氏を倒す名目で鎌倉に幕府を置く
頼朝が征夷大将軍に任命されたのが1192年ですが、すでに1180年の時点で侍所が設置されるなど鎌倉幕府の原型となる武家政権が構築されつつありました。
1183年の時点で、朝廷から頼朝の東北支配権を公認しています。このときの条件として東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証するものでした。1185年の平氏滅亡後には、早くも守護と地頭の設置と任免が許可されています。
1186年には奥州に勢力を持っていた藤原氏の打倒を開始。実質的な東国の司令官として3年かけて討伐、平定しました。実質的にはこの時点で征夷大将軍の役目を果たしたと言えます。その後1190年には政所も開設されます。こうして満を持す様な形で、征夷大将軍に任命され鎌倉が政治の中心として機能。幕府が誕生します。
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鎌倉時代の宮将軍
頼朝、頼家、実朝と三代続いた源氏将軍家でしたが、頼朝の妻・政子の実家である北条家に権力の座を奪われるだけでなく、直系が途絶えてしまいました。以降は執権として北条家が実権を握りますが、征夷大将軍の役職は4代以降も続きます。
最初は頼朝の妹の血統から藤原頼経、頼嗣の親子が、4代目と5代目の将軍になります。しかし北条時頼と対立したために京に送還。代わりに皇族から迎え入れられる宮将軍が登場します。
6代の宗尊親王から9代の守邦親王まで宮将軍が鎌倉に存在しました。そして鎌倉幕府が滅亡すると、守邦親王は将軍職を辞して出家。3ヵ月後に33歳の若さで薨去したと伝わりますが、あまり詳しいことはわかっていません。
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室町・戦国時代の将軍
鎌倉幕府が崩壊し、政治の実権は後醍醐天皇が握ります。そして建武の親政を行う中、征夷大将軍も任命され、天皇の子である護良親王、成良親王が将軍になりました。
しかし天皇の親政に反発する武家勢力は、源氏系統の足利尊氏を棟梁として挙兵。後醍醐天皇は、京を追われ吉野に逃げ込み南朝となります。
北朝天皇を立てた尊氏は征夷大将軍となり、京都の室町に幕府を成立させました。それとは別に南朝にも後続の将軍が2代続きましたが、3代将軍の足利義満のときに、南朝と北朝が合流し、南朝の将軍は消滅します。
その後、しばらくは足利家が将軍として力をふるっていましたが、8代将軍義政の時代に後継者争いから応仁の乱がおこり、将軍とそれを補佐する管領家でも後継者争いが起きたために、10年もの間、乱が続きました。それがきっかけで戦国時代に突入。各大名やその家臣たちが力で勢力を奪い合う下剋上の時代となります。
権力は無くなったものの、将軍としての権威は残り、引き続き室町幕府は存在。細川や三好といった実力者に利用されながら存続します。
やがて織田信長が15代将軍義昭と京都に入り、将軍を傀儡に信長が実効支配していきますが、義昭はそれに納得せず、諸勢力と組んで信長包囲網を構築。信長は苦しみながらもその包囲網を打ち砕きます。
ついに義昭は京を追われ、毛利氏のもとに身を置きました。ところが義昭が存命中に先に信長が本能寺で討たれてしまいます。
信長に変わって実質的な天下人になった豊臣秀吉は将軍ではなく関白となった為、2年半の間は、関白秀吉と将軍義昭が共存する形になりました。全国統一を目指す秀吉と義昭は酒を汲み交わすなど和やかな関係で、やがて義昭は京都に戻ると、1588年に将軍を辞任する旨、朝廷に返上。この年をもって正式に室町幕府が滅亡します。
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江戸時代の将軍
1600年の関ケ原の戦いで勝利した徳川家康は、その3年後に征夷大将軍に選ばれ江戸に幕府を開きます。かつて三河守を朝廷から任じられるために、当初の出自を世良田氏だったものを得川氏とした家康は、その正当性が認められる形で源朝臣として将軍の地位を手に入れます。
その後慶喜まで15代に渡り江戸時代が続き、慶喜の大政奉還をもって征夷大将軍を名乗るものは、なくなりました。
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まとめ:戦国時代ライターSoyokazeの独り言
征夷大将軍は当初平安初期の東北の蝦夷を討伐するための役職でした。征夷大将軍の他にも征東将軍などいろんな役職がありました。この役職を源頼朝が利用し、京都から離れた鎌倉に幕府を開くことになります。
足利尊氏が開いた室町幕府は京都の中にありましたが、戦国時代を経て征夷大将軍に任じられた徳川家康は、頼朝同様東国に拠点を持つことになり、江戸幕府が誕生。こうして発展した東国の大都市江戸は、東京と名を変えて世界的な大都会として現在も続いています。
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