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征夷大将軍って何?戦争指揮官が総理大臣を兼ねた深い理由

26/02/2022


野望を持ち始めた徳川家康

 

鎌倉、室町、江戸と中世から近世にかけての武家社会の棟梁が名乗る役職が、征夷大将軍(せいいいたいしょうぐん)です。将軍といえば、日本以外では職業軍人トップの官職に過ぎませんが日本では幕府の最高責任者で日本の統治者の認識ですね。

 

しかし元々の征夷大将軍は、他国と同様、幕府を開いて武家政治の棟梁のための役職ではありませんでした。ここでは本来の征夷大将軍ができた経緯と、やがて武家の棟梁の役職になっていた理由を解説します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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元々の征夷大将軍とは?

カムヤマト(日本神話)

 

征夷大将軍とは、元々は古代の朝廷における令外官(りょうげのかん)のひとつです。令外官とは従来の律令制にとらわれない柔軟性のある臨時の官職でした。その中でも蝦夷(えみし)を征討する役目を担う将軍のことです。

 

 

古代の日本では平安時代のころまで、主に東北地方では、まだ大和朝廷の完全なる支配下ではありません。この地には蝦夷と呼ぶ朝廷に従わない勢力がいました。そして朝廷は古くは日本武尊(やまとたけるのみこと)の時代より、度々軍を送って、勢力下におこうと遠征を繰り返しました。

 

これを蝦夷討伐事業と言います。元々、鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)持節征夷将軍(じせつせいいしょうぐん)持節征東大使(じせつせいとうたいし)持節征東将軍(じせつせいとうしょうぐ)征東大将軍(せいとうたいしょうぐん)などいう様々な役職がありました。ここで征夷大将軍という名前が登場するのは奈良末期です。

 

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平安時代までの征夷大将軍

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

初めて征夷大将軍と名前が登場するのが794年。同じ年の暮には平安京に遷都しました。初代征夷大将軍は大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)です。実は3年前に征夷大使に選ばれました。ところが弟麻呂は一旦辞表を提出。しかし朝廷は認めず改めて任命したのが、征夷大将軍です。

 

このときには、副将軍も任命されており、それは弟麻呂の後に征夷大将軍として名をはせる坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)です。田村麻呂は副将軍として蝦夷を征伐。その後田村麻呂は弟麻呂に変わり二代目の征夷大将軍に任命されました。そして4万の軍勢で平安京を発ち、蝦夷征討にむかいます。

 

そしてかたくなに抵抗していた蝦夷の首長・アテルイを屈服させることに成功。捕虜として京都に連れ帰り、東北が平定されました。その後文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が、三代目征夷大将軍として東北に兵を進めています。

 

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大和朝廷

 

 

源頼朝は軍事貴族・河内源氏出身

直垂を着用する源頼朝

 

三代の征夷大将軍により、東北が大和朝廷の支配下に収まると、臨時の官職である征夷大将軍は、以降任命されることなく平安末期を迎えます。そして次に征夷大将軍になったのは鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)です。頼朝は清和源氏の中でも武士団を形成した河内源氏(かわちげんじ)の出身。

 

河内源氏は平安中期に武官貴族であった源満仲(みなもとのみつなか)の三男、頼信(よりのぶ)により形成されました。そして河内国古市郡壷井(かわちのくにふるいちぐんつぼい)(現、羽曳野市(はびきのし))を拠点として、代々の当主が勢力を拡大。前九年(ぜんくねん)(えき)後三年(ごさんねん)の役など戦乱の舞台で活躍します。

 

 

やがて東国武士をまとめる武家の棟梁の地位を築きました。ちなみに頼信を1世とすると7世の孫が頼朝です。

 

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平家・源義仲・奥州藤原に対抗するための頼朝の戦略

伊豆へ島送りの刑となる源頼朝

 

河内源氏源義朝の三男として生まれた頼朝は、平治の乱で敗れ伊豆に配流されますが、やがて復活。当時絶大な勢力を誇っていた平家の打倒を目指します。しかし朝廷に公認されたわけではありません。そこで頼朝は関東で独立した王権を構築します。

 

木曾義仲(源義仲)武士 鎌倉

 

平家を先に京から追い払った源義仲(みなとものよしなか)は、征東大将軍に任じられていました。

 

藤原秀衡 鎌倉

 

そして奥州には100年間朝廷とは独立していた奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)がいて、鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に任命されています。

 

初代・征夷大将軍、源頼朝

 

そのような中で頼朝は大将軍と言う位を望むようになりました。やがて義仲、平家、そして奥州藤原のいずれも頼朝が制圧し、東国の頼朝政権が確立。この際、朝廷から提案された役職のうち頼朝が征夷大将軍を選んだので任命されました。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

奥州藤原氏を倒す名目で鎌倉に幕府を置く

京都御所

 

頼朝が征夷大将軍に任命されたのが1192年ですが、すでに1180年の時点で侍所が設置されるなど鎌倉幕府の原型となる武家政権が構築されつつありました。

 

1183年の時点で、朝廷から頼朝の東北支配権を公認しています。このときの条件として東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証するものでした。1185年の平氏滅亡後には、早くも守護と地頭の設置と任免が許可されています。

 

1186年には奥州に勢力を持っていた藤原氏の打倒を開始。実質的な東国の司令官として3年かけて討伐、平定しました。実質的にはこの時点で征夷大将軍の役目を果たしたと言えます。その後1190年には政所も開設されます。こうして満を持す様な形で、征夷大将軍に任命され鎌倉が政治の中心として機能。幕府が誕生します。

 

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鎌倉時代の宮将軍

北条政子 女性

 

頼朝、頼家(よりいえ)実朝(さねとも)と三代続いた源氏将軍家でしたが、頼朝の妻・政子(まさこ)の実家である北条家に権力の座を奪われるだけでなく、直系が途絶えてしまいました。以降は執権として北条家が実権を握りますが、征夷大将軍の役職は4代以降も続きます。

 

最初は頼朝の妹の血統から藤原頼経(ふじわらのよりつね)頼嗣(よりつぐ)の親子が、4代目と5代目の将軍になります。しかし北条時頼と対立したために京に送還。代わりに皇族から迎え入れられる宮将軍が登場します。

 

6代の宗尊親王(むねたかしんのう)から9代の守邦親王(もりくにしんのう)まで宮将軍が鎌倉に存在しました。そして鎌倉幕府が滅亡すると、守邦親王は将軍職を辞して出家。3ヵ月後に33歳の若さで薨去したと伝わりますが、あまり詳しいことはわかっていません。

 

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室町・戦国時代の将軍

足利尊氏

 

鎌倉幕府が崩壊し、政治の実権は後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が握ります。そして建武(けんむ)親政(しんせい)を行う中、征夷大将軍も任命され、天皇の子である護良親王(もりよししんのう)成良親王(なりよししんのう)が将軍になりました。

 

しかし天皇の親政に反発する武家勢力は、源氏系統の足利尊氏(あしかがたかうじ)を棟梁として挙兵。後醍醐天皇は、京を追われ吉野に逃げ込み南朝となります。

 

北朝天皇を立てた尊氏は征夷大将軍となり、京都の室町に幕府を成立させました。それとは別に南朝にも後続の将軍が2代続きましたが、3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)のときに、南朝と北朝が合流し、南朝の将軍は消滅します。

 

足利義満

 

その後、しばらくは足利家が将軍として力をふるっていましたが、8代将軍義政(よしまさ)の時代に後継者争いから応仁(おうにん)の乱がおこり、将軍とそれを補佐する管領家でも後継者争いが起きたために、10年もの間、乱が続きました。それがきっかけで戦国時代に突入。各大名やその家臣たちが力で勢力を奪い合う下剋上の時代となります。

 

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

権力は無くなったものの、将軍としての権威は残り、引き続き室町幕府は存在。細川や三好といった実力者に利用されながら存続します。

 

やがて織田信長(おだのぶなが)が15代将軍義昭(よしあき)と京都に入り、将軍を傀儡に信長が実効支配していきますが、義昭はそれに納得せず、諸勢力と組んで信長包囲網を構築。信長は苦しみながらもその包囲網を打ち砕きます。

 

逃げ回る足利義昭

 

ついに義昭は京を追われ、毛利氏(もうりし)のもとに身を置きました。ところが義昭が存命中に先に信長が本能寺で討たれてしまいます。

 

豊臣秀吉に仕える仙石権兵衛秀久

 

信長に変わって実質的な天下人になった豊臣秀吉(とよとみひでよし)は将軍ではなく関白となった為、2年半の間は、関白秀吉と将軍義昭が共存する形になりました。全国統一を目指す秀吉と義昭は酒を汲み交わすなど和やかな関係で、やがて義昭は京都に戻ると、1588年に将軍を辞任する旨、朝廷に返上。この年をもって正式に室町幕府が滅亡します。

 

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織田信長スペシャル

 

 

江戸時代の将軍

天下を収めた徳川家康

 

1600年の関ケ原(せきがはら)の戦いで勝利した徳川家康(とくがわいえやす)は、その3年後に征夷大将軍に選ばれ江戸に幕府を開きます。かつて三河守(みかわのかみ)を朝廷から任じられるために、当初の出自を世良田氏(せらだし)だったものを得川氏(とくがわし)とした家康は、その正当性が認められる形で源朝臣(みなもとのあそん)として将軍の地位を手に入れます。

 

大政奉還した徳川慶喜

 

その後慶喜(よしのぶ)まで15代に渡り江戸時代が続き、慶喜の大政奉還(たいせいほうかん)をもって征夷大将軍を名乗るものは、なくなりました。

 

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ガンバレ徳川

 

 

まとめ:戦国時代ライターSoyokazeの独り言

soyokaze(ライター)

 

征夷大将軍は当初平安初期の東北の蝦夷を討伐するための役職でした。征夷大将軍の他にも征東将軍などいろんな役職がありました。この役職を源頼朝が利用し、京都から離れた鎌倉に幕府を開くことになります。

 

足利尊氏が開いた室町幕府は京都の中にありましたが、戦国時代を経て征夷大将軍に任じられた徳川家康は、頼朝同様東国に拠点を持つことになり、江戸幕府が誕生。こうして発展した東国の大都市江戸は、東京と名を変えて世界的な大都会として現在も続いています。

 

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はじめての戦国時代

 

 

 

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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