戦国時代の日本の中心畿内から離れた地域を紹介するシリーズ。今回は甲府を紹介します。甲斐源氏武田氏が主に支配し、武田信玄が拠点とした甲府。武田氏の拠点としてまた滅亡後の甲府について、都市としての戦国時代の甲府の状況を解説します。
この記事の目次
戦国時代における甲府の人口
最初に年代別の甲府の人口を紹介します。甲斐の国で残っているのは現在の富士吉田市に当たる吉田で、1554(天文23)年の人口は推定5000人。これはちょうど武田信玄の治世で、関東の後北条と駿河の今川と三国同盟を結んだ年です。
甲府の人口が増えたのは江戸時代に入ってからで。1650年になると、26000人という記録が残っています。これは豊臣系の大名の活躍によるものでした。加藤・浅野氏により築城された甲府城。その城下が整備されたことが大きいです。
戦国時代の甲府を主に支配していた者・豪族
戦国時代に甲府を支配していたのは、主に次の勢力です。
・武田氏
・河尻氏
・徳川氏
・豊臣系大名
古くから機内とのかかわりがあった甲斐国の甲府。平安時代末期には武田氏の先祖でもある河内源氏の支配となります。彼らは甲斐源氏を名乗り、鎌倉の守護、室町の守護大名として支配していました。
応仁の乱以降、戦国時代に突入すると甲府を狙う勢力が次々と現れ一時期国が乱れました。しかし他国のような下克上は起きていません。
基本的に守護の武田氏がそのまま戦国大名として甲斐の国を支配しました。18代の信虎は武田宗家を統一し、国内の国衆とも戦い。乱れた甲斐を再統一。
1519年甲府を拠点とし躑躅ヶ崎館を建てました。ここでは信虎の子晴信(信玄)の勢力拡大の拠点となり、さらに勢力を拡大しました。そして晴信の子・勝頼の時代まで続きます。
長篠の合戦で、織田徳川連合軍に敗れた武田勢は急速に勢力を奪われます。そして1582年になって滅亡。甲府は織田信長の命により河尻秀隆が支配します。
ところが同じ年の6月に本能寺の変が勃発すると、甲斐の国に一揆が起こり、その影響で秀隆は死亡。
守護不在の状況に真っ先に進出したのが、当時遠江の浜松を拠点としていた徳川家康です。同様にに甲斐の国を狙っていた後北条氏と戦いました。和睦の後に正式に家康の領土となります。そこでは家康の元、武田信玄ともつながりのある穴山勝千代が継ぎます。
やがて小田原の北条を滅ぼし天下を統一位した豊臣秀吉の命により、家康が関東に入封されると、このあと豊臣系の大名、羽柴秀勝、加藤光康、浅野長政らが交互に甲府入りし甲府城が築城されました。
関ケ原の合戦の後、甲府は徳川系の親藩大名や柳沢氏が入ります。
応仁の乱から家康の天下統一までに駿府で何が起きていたか?
応仁の乱の前から徳川家康が天下を支配するまでの間に甲府で起きた主な出来事です。
- 河内源氏の流れを汲む武田氏が守護として支配
- 甲斐守護・武田信満が上杉禅秀の乱の関係で自害
- 甲斐国人・逸見氏が鎌倉公方の支持を得て台頭
- 永享の乱で鎌倉府が衰退すると、信満の長男・信重が幕府の支援で甲斐に入る
- 武田信昌が守護代の跡部氏を排斥
- 武田信虎が武田宗家と甲斐国内を統一
- 信虎が甲府に躑躅崎館を建設
- 武田信玄の時代には信濃侵攻や上杉、今川らと対峙する際の拠点として甲府が繁栄
- 武田勝頼は長篠の合戦で織田徳川軍に敗れて衰退し、やがて天目山にて滅亡
- 武田の後を織田家臣河尻秀隆が入る。本能寺の変の直後に一揆で死亡
- 守護不在の甲斐の国を徳川家康が制圧、後北条氏との間での領土争いが起こる(天正壬午の乱)
- 家康配下で、武田信玄の外孫、穴山勝千代が入る
- 家康が関東に入封される
- 豊臣系の大名が交互に入り、甲府城が築城され、城下が整備される。
- 江戸時代初期は徳川親藩による支配が中心となる。
なぜ甲府は首都になれなかったのか?
甲府に首都機能が移る可能性は非常に低いと考えられます。仮に信玄が途中で死ぬことなく信長と互角で戦ったら?三方ヶ原で徳川家康をものともしなかった力をもってすれば、信長を倒して天下を取った可能性はあります。
たとえそうだとしても、家康の作った江戸と違い、山に囲まれているので交通の便が悪く、甲府は首都に変わる可能性が低いと考えられます。また甲府に信玄が幕府を作る可能性も考えられにくく、京都・室町かその近くでしょう。
具体的には信長が構築した安土、もしくは秀吉が構築した大坂あたりに幕府を作った可能性が高いです。それでも甲府は江戸時代徳川将軍家の重要な場所と位置付けられ、将軍の子に継がせたり、側近の柳沢氏に与えたりしています。
また甲州街道で江戸と通じており、人口も戦国時代よりも数倍増えているので、武田幕府が出来たら準首都のようなポジションになっていた可能性はあります。
それでも家康が自らの出生の地岡崎をそこまで大都市にせず、尾張名古屋に御三家を置いたことから、戦略的な視点でどうなっていたかは微妙。さらに最近の話ですが、実現性は微妙なものの、首都機能移転候補に挙がっています。特に甲府のある当たりはリニア中央新幹線が通ることが決定。将来的に首都機能を持つ街に変わる可能性は残されています。
甲府の経済面について
甲府の経済を語るときには、信玄の時代を忘れるわけにはいきません。甲斐源氏の末裔として代々支配していた武田氏は、父・信虎の時代から一国支配するようになります。
永正16年(1519年)に、古府中に躑躅ケ崎館を信虎が築いてからは、その周辺に家臣団を集住させます。これにより新たに武田城下町が形成されました。信虎の跡を継いだ信玄はここを拠点としてで勢力を拡大していきます。
その中で信玄は、治水や金山開発を積極的に行い経済力を上げて、強大な武田騎馬軍団を牽引しました。信玄の治水事業は「信玄堤」と呼ばれるものを構築。これは現代も残っている堤です。通常堤防は直線一本で川からの洪水を守りますが、信玄堤は何本もの堤防を重ねながら川を取り込んだため、洪水被害が緩和され、生産力がUPしました。
もうひとつは金山開発です。信玄の下には金山衆という組織があり、甲府から見て東北の秩父方面に位置する黒川金山の経営発掘を行いました。これで経済力、そして武田騎馬隊へ軍資金につながります。
また戦が始まると金山衆も参戦。金山運営で培われた掘削や土木の技術・知識が城攻めで有効に働きます。そのため信玄から特別に褒美をもらうほど活躍しました。
地震や津波などの自然災害について
甲府の自然災害ですが、戦国時代に致命的な被害の報告はありません。南海トラフと呼ばれている明応地震や天正大地震も甲斐国は幸いなことに被災地からずれています。山に囲まれているので津波も全く影響ありません。
戦国よりも後、江戸時代の記録で1854年に起こった地震の記録が残っているのみ。また甲府の近くには富士山があります。
そこでこちらの噴火の記録を確認しました。しかし800年の延暦大噴火、864年の貞観大噴火の次は、1707年の宝永大噴火まで噴火の記録がありません。結果的に戦国時代に富士山の噴火による影響はありませんでした。
戦国時代ライターSoyokazeの独り言
甲府は戦国時代に代々武田氏が治めており、信玄の時代が最盛期でした。
子の勝頼の時代、長篠の合戦の後に衰退。滅亡後は徳川領となり、さらに豊臣系大名が支配していきます。その間に甲府には新たな城と城下町が形成されました。また江戸時代には重要拠点として徳川家の親藩たちが支配することの多かった甲府は、戦国時代よりも発展しています。
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