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鎌倉時代の結婚はどんなものだったの?嫁入り婚のルーツは坂東武者【鎌倉殿の13人】

25/02/2022


鎌倉殿13人 北条義時

 

すでにTwitter界隈では大きな反響を呼んでいるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」戦国や幕末と比較して馴染みがない時代ではありますが、戦国や幕末に慣れた視聴者にとって珍しく見えるのは北条家の婿になった頼朝の存在ではありませんか?

 

kawauso

 

どうして政子が頼朝に嫁ぐ形式ではないのだろうか?そう疑問を持った方に、鎌倉時代の結婚について解説します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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古い結婚の形は婿入り婚

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

現在一般的な女性が男性の家に入る嫁入(よめい)り婚というのは、平安時代には一般的ではなく、当時の結婚方式は婿入(むこい)り婚と言い、新郎が新婦の家に同居する形式が標準でした。平安時代の日本は母系社会であり、家を継ぐのは女性で財産も家を継ぐ女性に多く配分されていたのです。

 

男性は、気に入った女性と文通して交際を深め、女性が家に来てもよいと返信すると男性は夜這いをかけ、3日連続でウヒョ!を済ませた後、婿として承認されました。

 

このように書くと、妻の実家で義父や義母、兄弟たちと同居は大変そうと考えがちですが、当時の貴族は娘が婿を取る時の為に、本宅の離れに娘専用の家を建て炊事も食事も別でした。そのため同居と言っても妻の一族と四六時中顔を合わせるわけではなく、現在の二世帯住宅のような感覚だったのです。

 

こうして子供が生まれると、子供は妻の実家で育つ事になり、離婚する時には男性が身一つで実家に戻る事になります。ここから見ても分かる通り平安時代の結婚は母系社会が、他所から男性を迎え入れて子孫を残し家を繋いでいく形式です。

 

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嫁取り婚は関東武士の習慣だった

木曾義仲(源義仲)武士 鎌倉

 

では、現在のような嫁入り婚はいつから始まったのでしょうか?

それは、平安時代の関東において武士の間で広まったと考えられています。関東の武士は京都の貴族や天皇、上皇、寺院の所有する荘園を管理しながらその収益の一部で生活を立てていました。

 

蒙古兵に先駆けをする竹崎季長

 

しかし、関東から京都は遠く、朝廷はとっくの昔に国防軍を解散していたので、武力が強い武士団が弱い武士団の土地を併合して自分のモノにしてしまう世紀末状態が継続していました。まさにYOUはShock!

 

一応、受領(ずりょう)と呼ばれた(かみ)(すけ)のような地方官もいましたが、彼らの仕事は徴税メインであり、コネでもない限り地元武士団の荘園を守る為に動いてはくれません。またまたYOUがShock!

 

源頼朝の父、義朝にしても、関東で大庭氏の土地を強奪するなど悪党同然の所業をしていましたから、関東武士団の状態は推して知るべしでした。ダメ押しYOUもShock!

 

伊東祐親 鎌倉

 

こんな状態では、土地を守る為に男を家に兵士として残る必要が生じます。そこで男性が婿に入るのではなく、男性が嫁を取る嫁入り婚が一般化していくのです。鎌倉殿の13人でも伊東祐親(いとうのすけちか)の娘、八重姫(やえひめ)が頼朝と離婚させられた上で江間次郎の所へ嫁に出されていましたよね?

 

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歴史ヒストリア

 

 

頼朝が婿取り婚を選んだ理由

北条政子とラブラブな源頼朝 鎌倉 女性

 

しかし、ここで疑問が湧いてきます。そんな嫁入り婚が普及してきた関東で頼朝はどうして伝統的な婿取り婚を選んだのでしょうか?

 

第一は、当時の頼朝が伊豆の流人で経済的な基盤がなく、伊豆豪族の監視下にあった事でしょう。流人の身の上では財産もなく嫁を取っても食べさせていく事ができないからです。

 

伊豆へ島送りの刑となる源頼朝

 

第二は、頼朝が尾張で生まれ京都で育ったシティボーイで、婿入り婚が当たり前の世界で成長したという事もあります。

 

直垂を着用する源頼朝

 

ですが一番大きいのは、婿入り婚の方が自分の勢力を拡大する点でプラスだと頼朝が考えたせいでしょう。北条家に婿に入り、その組織力と経済力をわが物として反平家の挙兵に繋げるのが頼朝の真意だったのです。

 

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47都道府県戦国時代

 

 

源義朝も婿入り派だった

 

頼朝ばかりではなく父の義朝も、若い頃関東に下向し、入り婿になって各地の有力者の婿となり、子供を儲けて自分の勢力基盤を強化していました。

 

例えば、庶長子(しょちょうし)義平(よしひら)の生母は三浦義明(みうらのよしあき)の娘と言われていますし、義朝の次男朝長(ともなが)の生母は波多野義通(はたのよしみち)の妹、義朝の六男、範頼(のりより)の生母は遠江国の交通の要衝、池田宿(いけだじゅく)の遊女と言われています。

 

これは、頼朝にも顕著ですが、当時の貴人は正室以外にも多くの妾を持つのが普通で義朝も源氏の血統を利用し、体一つで勢力基盤を広げていけたのです。

 

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承久の乱後、武士の風習が関西に浸透していく

京都御所

 

現代人の感覚で平安から鎌倉の人々を非難するのはよくありませんが、婿入り婚というのは、相当に乱れたものでした。

内容に納得がいかないkawauso様

 

それこそ大貴族となれば財力と血統にモノを言わせ正室以外にも多くの側室を持ち、よその奥さんとも関係し、なんなら血縁者でも気に入れば側室にするなど、倫理的にどうなのという問題が生じました。

 

鎌倉幕府は武士の政権を築く上で、やはり武士らしく質実剛健でないといけないと考えたので、関西の婿入り婚ではなく嫁取り婚を進めていき、それが次第に日本全国に浸透していき、江戸時代には嫁入り婚が当たり前になっていきました。

 

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WEB版 はじめての三国志

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

しかし、嫁入り婚が浸透する中で戦闘者である男性に家の権限が集中し女性からは財産の相続権が失われ、「女は三界に家なし」「幼い時は父母に仕え、結婚しては夫に仕え、老いては子に従え」というような女性にとって辛い男尊女卑の時代が到来します。

 

明治維新後も、富国強兵の国是から強い家、強い家長が求められ、むしろ男尊女卑の傾向が強くなり、戦後、男女平等が叫ばれる時代になっても、あちこちにその風潮は残って、現在に至っているのです。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

 

 

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