源行家とはどんな人?関わる人に不幸をもたらす頼朝・義経の叔父の生涯【鎌倉殿の13人】

10/02/2022

源行家 鎌倉

 

源行家(みなもとのゆきいえ)河内源氏(かわちげんじ)五代目当主、源為義(みなもとのためよし)の十男として誕生します。

 

平治の乱では兄義朝(よしとも)(くみ)して敗北、しかし戦線離脱に成功し熊野(くまの)で20年間潜伏、治承(じしょう)4年(1180年)以仁王(もちひとおう)の平家追討の令旨(りょうじ)を山伏に扮して全国の源氏に届け、治承寿永(じしょう・じゅえい)の乱の火ぶたを切りました。しかし、この行家、人を(あお)るのが上手な癖に自分は独立志向が強く、他人の人生を振り回し不幸をもたらす困った人物だったのです。

 

源氏の中の源氏、河内源氏を解説

 

 

河内源氏棟梁、源為義の十男として誕生

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

源行家は永治(えいじ)年間から康治(こうじ)年間(1140年代の前半)の初めに河内源氏の五代目棟梁、源為義の十男として誕生します。同母姉の鳥居禅尼(とりいぜんに)新宮別当家(しんぐうべっとうけ・)行範(ぎょうはん)の妻になっていた影響でしばらくは熊野新宮に住み新宮十郎(しんぐうじゅうろう)を名乗っていました。

 

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平治の乱で破れ20年熊野に潜伏

討死する坂東武士(モブ)

 

平治元年(1159年)平治の乱が起きると兄の源義朝に味方して従軍しますが義朝は六波羅(ろくはら)から後白河上皇(ご・しらかわじょうこう)二条天皇(にじょうてんのう)(よう)して上って来た平清盛に敗れ、逃亡先の尾張国野間で暗殺されます。

 

行家はというと山伏と親しかったせいか、抜け道に精通していて戦線離脱に成功。姉のいる熊野に逃れ、その後20年間潜伏しました。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

以仁王の令旨を全国の源氏に届ける

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

治承(じしょう)四年(1180年)行家は摂津源氏の源頼政(みなもとのよりまさ)に呼び出され、山伏に(ふん)して以仁王の平家追討の令旨を全国の源氏に届けました。しかし、南北朝期に成立した明石覚一(あかしかくいち)の「覚一本平家物語」によれば、行家の動向は熊野別当湛増(くまのべっとう・じんぞう)に気づかれて平家方に密告され、以仁王の挙兵がバレる原因になったとも言われます。

 

だとすれば行家の最初の被害者は以仁王と源頼政という事かも知れません。

 

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平重衡に敗れ鎌倉の頼朝を頼る

鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝

 

行家は(おい)源頼朝(みなもとのよりとも)にも以仁王の令旨を与えますが、彼は頼朝の傘下には入らず独立勢力を志向します。三河国と尾張国で勢力を築く行家ですが、養和元年(1181年)勢いを盛り返した平重衡(たいらのしげひら)墨俣川(すのまたがわ)の戦い、矢作川(やはぎがわ)の戦いで二度も敗れて壊滅的な被害を受け南関東で地盤を築いていた甥の頼朝を頼り相模国松田(まつだ)に住み着きました。

 

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頼朝とケンカし義仲を頼る

木曾義仲(源義仲) 武士 鎌倉

 

しかし、頼朝に所領を求めて拒否された事で腹を立て対立、以降は北陸道で勢力を伸ばした同じく甥の源義仲(みなもとのよしなか)の傘下に入ります。義仲は行家を(かば)いますが、そのせいで鎌倉の頼朝と険悪な関係になり、義仲は安全保障のために嫡男、義高(よしたか)を鎌倉に人質として送り頼朝の長女、大姫(おおひめ)と縁組させました。

 

表情 kawausoさん02

 

それにしても行家、甥っ子の陣営を所領を求めて、あっちふらふらこっちふらふらトラブルのタネを撒く困ったオジサンですね。

 

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義仲と共に上洛

京都御所

 

義仲の陣営で行家は能登国(のとのくに)志保山(しほやま)の戦いに参加。源義仲が倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで平家総大将平維盛(たいらのこれもり)が率いる追討軍十万を撃破し、さらに続く篠原の戦いでも勝利。それにあわせ源行家は別動隊を率いて伊賀方面から京都に侵攻、安田義定(やすだよしさだ)多田行綱(ただゆきつな)も京都周辺で不穏な動きを見せたので平家は京都の防衛を断念。

 

安徳天皇と異母弟守貞親王(もりさだしんのう)を擁し三種の神器を抱えて西国に逃れ、寿永2年(1183年)ついに義仲は源氏として二十数年ぶりに京都に入ります。

 

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恩賞を巡り義仲と揉める

朝廷(天皇)

 

ところが、ここでまた行家のプライドが爆発しました。後白河法皇の前で甥の義仲と拝謁の序列を争い、並んで前後せずに拝謁したのです。この人、義仲が嫡男を鎌倉に送ってまで自分を庇った事を何とも思っていません。

 

朝廷では会議の結果、今回の平家都落ちの論功行賞の序列を、頼朝1位、義仲2位、行家3位と認定しました。何もしていない頼朝が1位と言う事で義仲は不満を持ちますが、それ以上に不満を見せたのが行家でした。

 

従五位下備後守(じゅごいのげ・びんごのかみ)の官位に対し「甥の義仲と差がある」と不満を述べすぐに備前守(びぜんのかみ)に移りました。しかし行家は没収された平家官領のうち90カ所あまりを与えられ優遇されます。後白河法皇は山育ちで、皇位継承問題にまで口を挟む無礼な義仲を嫌い、虚栄心(きょえいしん)が強くすぐに他人と争う行家を表向き優遇して義仲と敵対させました。

 

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義仲と対立し京都を離れる

藤原京(地図)

 

2人は性格も対照的で山育ちで武骨な義仲が法皇や貴族に嫌われる一方で、近畿で育ち弁舌が立ち社交性が高い行家は院内に入りびたり法皇の双六(すごろく)相手を務めるなどして積極的に取り入ります。

 

ところが、そのせいで決定的に義仲と対立、身の危険を感じると平家討伐に名を借りて京都を脱出しますが、播磨国(はりまのくに)平知盛(たいらのとももり)と重衡連合軍に室山(むろやま)の戦いでまた敗北し、河内国の長野城に立て籠もったものの、今度は義仲が派遣した樋口兼光(ひぐちかねみつ)に敗れ紀伊国の名草(なぐさ)に逃げ込みます。

 

他人を煽る弁舌と権謀術数に長けた行家でしたが、戦争には壊滅的に弱かったようです。

 

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47都道府県戦国時代

 

 

義経を引き込んで頼朝に反旗を翻す

源義経 鎌倉時代

 

義仲が頼朝の派遣した範頼、義経兄弟の軍勢に討たれると行家は元暦元年(1184年)2月に法皇の召集で帰京しました。その後の行家は義経に対し「やあ、大きくなったなァ九郎(くろう)、行家オジサンだよ!しばらくぶりだなぁ」みたいなトークで義経に接近しつつも鎌倉の平家追討軍には加わらず、半ば独立した勢力として和泉国(いずみのくみ)と河内国を支配します。

 

これが行家の運命を決定しました。文治元年(1185年)壇ノ浦で平家を滅ぼした頼朝は、自分に従おうとしない行家討伐を義経に命じました。しかし、義経もまた命令違反で鎌倉に入れない身分であり、行家は得意の交渉術で義経に取り入ります。

 

「なあ九郎、お前の武勇と俺の知略があれば、遠い鎌倉の頼朝なんざ恐れるに足りないぜ。

ここで兵を挙げて日本の半分を味方に付けて鎌倉と対峙するんだ。大丈夫、オジサンを信じなさい」

 

戦は強くても、性格が純粋な義経は、巧みな行家の弁舌に乗り後白河法皇に迫って頼朝追討の院宣(いんぜん)を受け兵を募ります。ところが行家の読みは最後の最後で大外れでした。義経は戦に強くても人望がなく、それは行家も同じだったからです。

 

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北条時定の手勢に捕らえられ斬首

最強の寄せ集め集団を率いる源頼朝

 

頼朝追討の兵は全く集まらず、逆に頼朝は本気で自らが総大将として京都まで義経・行家追討の軍を興したので、武士団は雪崩を打って頼朝に味方しました。

 

危険を感じた行家と義経は京都を脱出、途中、摂津源氏、多田行綱の襲撃を撃退しますが、九州を目指そうと大物浦から船を出すも暴風雨に遭遇して船は大破。ここから行家と義経は別々のルートを辿ります。

 

行家は逃亡の末に和泉国日根郡近木郷(ひねぐん・こぎごう)在庁官人(ざいちょうかんじん・)日向権守清実(ひゅうが・ごんのかみ・きよざね)の屋敷に潜伏します。しかし文治2年(1186年)の5月、地元民が潜伏先を幕府に密告。幕府から命令を受けた北条時定の手勢によって捕らえられ山城国赤井河原(あかいがわら)にて斬首されました。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

源行家は結局何をしたかったのか分からない人でした。

 

頼朝の配下になるわけでもなく義仲の配下になるわけでもなく、ただ周辺を焚きつけて、自分に有利な状況を造ろうとしますが、結局は頼朝にも義仲にも嫌われ、義経を巻き添えにして最期の挙兵をし、寂しい最後を迎えます。

 

恐らく行家にはビジョンなどなく、その場の行き当たりばったりで判断を下し、生き延びる事に喜びを感じるようなタイプだったのかも知れませんね。

 

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ほのぼの日本史

 

 

 

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カワウソ編集長

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