ひえもんとりとは、薩摩藩に幕末頃まであったとされる奇習です。
「ひえもん」とは、生臭いモノという意味の薩摩弁で、ひえもんとりとは、死刑を執行され首を落とされた囚人の周りに丸腰の男達が群がり、自分の歯や爪だけを使って死体を食い破り、生肝を抜き取って薬にするというゾンビみたいな奇習でした。
現代の感覚では俄かに信じ難いひえもんとりですが、本当にあったのでしょうか?
この記事の目次
ひえもんとりが最初に出てくるのは、里見弴の短編小説
ひえもんとりが最初に出てくるのは、1917年4月に白樺派の作家、里見弴が発表した短編小説です。そこでは里見弴の父親が幼少期に見た光景として、ひえもんとりが語られています。
里見弴の父は、有島武と言い、天保13年(1842年)3月21日に鹿児島県川内市平佐で生まれた薩摩藩士です。安政2年(1856年)に領主の北郷久信の近侍となり、1862年には久信に伴って江戸に行き、江川太郎左衛門の塾で砲術を学び、第一次長州征伐に従軍。
慶応元年(1865年)に帰藩してからは、鹿児島城下の洋学校、開成所に入学して寺島宗則に英語を学び、維新後は大蔵官僚になり欧州視察をするなど出世。1893年に大蔵大臣と対立してからは民間に下野して鉄道会社や国立銀行でと取締役を務めるなど成功した人物でした。
ただし、里見弴はひえもんとりについて取材をしたわけではなく、父親の話を小説に変換して語っただけの可能性もあります。或いは、父親である武が息子を怖がらせようとして、ホラ話をしたかも知れません。
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司馬遼太郎が取り上げてメジャーに
そもそも里見弴の短編小説、ひえもんとりは余り話題にもなりませんでした。元々、小説のような体裁なので、そんな奇習があるとは誰も信じなかったか、そもそも、さして人気がないうちに忘れられたのでしょう。
ところが、それから半世紀以上経過してから国民作家、司馬遼太郎が再び、ひえもんとりを取り上げます。それは司馬遼太郎が考えたことというエッセイにおいてで、以下のように、ひえもんとりを書きました。
肝だめしはある。自分の肝だめしどころか、他人の肝までとる。
刑場で打首の刑があるときけば、競って刀で腹を割いて肝をとるのである。
その肝を陰干しにして薬にするとも言い、あるいは単に度胸の競いあいだけともいい、
あるいはそれをその場で食ってしまうという凄い事例もあったらしい。
南方の原住民は、敵の勇者の肉を食う。薩摩ではこれを「ひえもんとり」というが、
あるいは遠い時代の食人の風の名残りかも知れない。
あの国民作家の司馬遼太郎が書いたのだから、きっとひえもんとりはあった!と思いたくなる気持ちは分かりますが、司馬遼太郎は、これを鹿児島の誰々から聞いたとは書いていません。
しかも、里見弴のひえもんとりと比較すると、里見の話では丸腰で歯と爪で生肝を抜くと書いてあるのに、司馬遼太郎は、刀で腹を割いて取ると書いています。
そして、司馬遼太郎は、ひえもんとりが薩摩のどこで行われたか?地名も書いていません。なので、この情報源は結局の所、鹿児島での取材ではなく、里見弴のひえもんとりを下敷きにした憶測でしかないのではないかと思います。
ひえもんとりを記憶に焼き付けた薩摩義士伝
司馬遼太郎がエッセイで書いた事で、ひえもんとりは、実態があやふやなまま凶戦士の薩摩隼人ならやりそうというノリで、世間に流布されていきました。
さらに、元々文字だった、ひえもんとりにビジュアルで味をつけたのが平田弘史が書いた薩摩義士伝です。さいとうたかをプロらしいアクの強い劇画タッチのこの漫画で、ひえもんとりは里見弴や司馬遼太郎でも書かなかった方向に進化を遂げます。
死刑囚を疾走する馬に乗せて刑場に送り込み、東西に分かれ完全武装した騎馬武者が死刑囚の肝を奪い合い殺し合う。
ただし、死刑囚が、万が一、その攻撃をかわしてある地点まで到達できたら罪を許される。
このような、なにこれ?どこのグラディエーター?みたいな壮大で凄惨な話になっています。
もう、里見弴とも司馬遼太郎とも違う、完全オリジナルひえもんとりです。もちろん、これが史実であろう筈もありません。逃げきれたら死刑囚が無罪放免なんて、そんないい加減な刑法ありませんよ。
では、ひえもんとりはでたらめなのか?
薩摩藩にひえもんとりという奇習があったのかと言うと、分からないとしか言えません。しかし、戦前・戦後すぐまで、日本中で人の生肝は薬になるとして、子供を拉致して肝を抜いたり、死者から肝を抜くという事件はよくあったのは事実です。
その証拠として、明治3年3月には当時の刑部省より
「斬罪ノ遺躰ヨリ人胆等ヲ取リ密売買并刀剣利鈍ヲ様シ禁止ノ儀申立」という通達が出て、
人肝、陰茎、頭蓋骨などの人体の一部を薬として売買する事を禁ずる法令が出ている事もそれを裏付けています。
このような通達が出るという事は、当時は、肝臓や陰茎や頭蓋骨を切り取り薬として売る商売が成立していて、禁止しないといけない程だったわけです。
つまり、薩摩藩だけでなく、当時は儲かるので死体から肝臓やら頭蓋骨やらを切り取る人は存在したわけですね。なので、もちろん薩摩藩にもそんな習慣がないとは断定できませんが、だからと言って、里見弴や司馬遼太郎が書いたような事が習慣になっていたとまでは言い切れません。
ひえもんとりを事実とするならば、当時の文献やら伝承やらを見つけ出して真偽を確かめて精査しないといけません。薩摩隼人ならやりかねないみたいなノリで認定するのは違うでしょう。
日本史ライターkawausoの独り言
今回は、ひえもんとりについて書いてみました。
死刑囚の周囲に大勢の丸腰の男が今にも飛び掛かりそうに群がり、首が落ちると同時に死体に食いついて、生肝を抜くというのはまんまゾンビですが、どう考えても残酷話を面白おかしく吹かしただけのような気もします。
まあ、面白がるだけなら罪はありませんが、公共の場で持ち出すと、鹿児島の人には白い目で見られるかも知れませんから注意しましょう。
参考文献:
司馬遼太郎が考えたこと 新潮文庫
参考文献:薩摩義士伝
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