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築山殿(瀬名)が岡崎城に入らず寺に住んだ本当の理由は?【どうする家康】

07/03/2023


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

築山殿(瀬名姫) 女性

 

NHK大河ドラマ「どうする家康」人質交換で三河に戻ってきた瀬名(築山殿)ですが、三河一向一揆の鎮圧後に岡崎城を下りて城下の寺に住むようになります。ドラマの上では城の中ではなく城下で岡崎の人々の悩みを理解したいというものですが、史実の上ではそうではありませんでした。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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築山殿は家康と離婚していた

ヘタレすぎる徳川家康

 

鵜殿長照(うどのながてる)の2人の息子と人質交換で岡崎に戻った築山殿と2人の子どもでしたがドラマとは違い、当初から岡崎城には入城せず、現在西岸寺がある場所に建っていたいた寺院に住んでいたようです。

 

book-saiyuki(西遊記-書類)

 

 

その大きな理由は家康が織田信長と結んで今川と断交した段階で築山殿とは離婚していたという事が挙げられます。その証拠として松平家忠が「家忠日記」において築山殿を正室の敬称である「御前(ごぜん)さま」ではなく、「信康御母(のぶやすおんはは)さま」と書いています。つまり、この段階で築山殿は嫡男信康の生母であっても家康の正室ではなかったという事になるのです。

 

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築山殿が正室に返り咲く

松平信康

 

しかし、永禄10年(1567年)家康の長男信康と織田信長の娘である徳姫の婚姻が決定。これを受けて家康は築山殿を正室待遇に戻し、元亀元年(1570年)信康を嫡男として岡崎城に入城させ、築山殿も生母として岡崎城へ入城を果たします。その後家康は岡崎城から、さらに東にある浜松城に本拠地を移しますが、築山殿は信康と共に岡崎城に留まりました。

 

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正室の権力を振るう築山殿

家臣にどうする?と迫れられる徳川家康

 

築山殿が正室の権限を取り戻した事が確認できる事件として、天正2年(1574年)家康の側室長勝院が次男結城秀康を出産した時、長勝院を城内から退去させた事があります。正室は別妻や妾を置く事を妻として承知するかの権限を持っていて、築山殿は無断で側室を置いた家康に対し、正室の権限を行使したと考えられます。

 

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築山殿は信康と運命共同体

切腹する松平信康

 

ここまでの経緯を見ると、築山殿が家康の正室の地位に昇り、正室でありつづけるためには、嫡男信康の存在が大きかった事が分かります。しかし、肝心の徳姫と信康の関係は2人の間に男子が誕生しない事や、その事に焦った築山殿が信康に側室をあてがった事で極端に悪化しました。

tokugawa-oda(織田信長と徳川家康)

 

徳姫は信長の娘としてプライドが高く、側室を置かれる事が許せなかったようで夫婦の関係は修復不可能となり、徳姫は父である信長に不満を書き送りました。その事で信長が怒り、家康に対し信康と築山殿の処断を求めたと従来は言われてきました。しかし、最近では夫婦仲だけではなく信康の所業にも信長を軽んじたり、家康の命令を守らなかったりと徳川の将来を揺るがす不安要素があり、家康は悩んだ末に独自の判断で信康と築山殿を殺したとする説もあります。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

kawauso

 

今回は築山殿がどうして、岡崎城を下りて寺で暮らすようになったのかを史実から説明しました。元々築山殿は今川氏一門格の関口氏純の娘であり、それが家康正室としての正統性でした。しかし、家康が今川氏と断交し、築山殿の父母が今川氏真に誅殺されるに至っては実家の後ろ盾を失い、家康も今川氏との関係を断ち切る為に離婚を選ばざるを得ませんでした。しかし長男の信康が信長の娘と縁組する事になり、生母である築山殿の威信が上昇し、家康正室の立場に返り咲いたのです。

 

ただ、それも信康が家康の後継者として成長する事が前提であり、信康が家康に殺害されるに至っては築山殿も死を免れなかったのかも知れません。

 

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カワウソ編集長

カワウソ編集長

日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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