長丸(徳川秀忠)とはどんな人?影の薄い二代将軍の生涯

30/10/2023


 

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日本史01 徳川秀忠

 

 

NHK大河ドラマ「どうする家康」にも登場した徳川家康の三男、長丸(ちょうまる)。彼が後の二代将軍徳川秀忠となる事は有名ですが、家康に比較すると扱いは小さく、恐妻家で側室の1人も持てなかった事や、上田城で真田昌幸に翻弄され、関ケ原の戦いに間に合わないなど、トホホな人物扱いさえされます。でも、それは事実なのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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生後5か月で長兄信康が切腹。家康の後継者へ

切腹する松平信康

 

長丸は1579年徳川家康の三男として遠江国浜松城で誕生します。生母の西郷局の実家、三河西郷氏は土岐一族で室町時代初期には三河守護代を務めた名家であったようです。長丸が誕生してから僅かに5ヶ月後、長兄信康が切腹します。順番で行けば異母兄である於義丸(おぎまる)が家康の後継者になるハズでしたが生母の身分が低く豊臣秀吉の養子に出たために長丸が後継者となります。

 

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実は家康が期待していた長丸

奥平信昌を厚遇する徳川家康

 

家康は小牧長久手の戦い後の講和で秀吉の妹とである旭姫を正室に迎えていますが、一説では、もし旭姫との間に嫡男が生まれても徳川の家督を長丸以外には継がせない事や、長丸を秀吉の人質にしない事、家康が死んだ場合には、必ず長丸に徳川五か国を継承させる事など、多くの条件を飲ませていたようです。家康が幼い長丸に期待していた様子が分かります。

 

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秀次事件の後、淀殿の妹、達子を正室にする

切腹する豊臣秀次

 

長丸は、小田原征伐に際して実質的な人質として上洛し秀吉の偏諱を受けて名を秀忠と改めました。さらに文禄の役で家康が秀吉の朝鮮出兵の命令を受けて、九州の名護屋に出陣すると榊原康政や井伊直政の後見を受けつつ関東の領地を守ります。

 

1595年、豊臣秀次事件が起きて秀次が切腹すると、秀吉は誕生したお拾(秀頼)の生母である淀殿の妹である達子(みちこ)於江(おごう))を秀忠と娶せました。秀忠はそれなりに秀吉に信じられていたようで、1598年に書かれた秀吉の遺言状では、家康が年を取って病気がちになった場合には秀忠が代わって秀頼の面倒を見る事とされています。

 

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関ケ原に遅参するが叱責の理由は別にある

馬にのり凱旋する将軍モブ(兵士)

 

秀吉が死ぬと秀忠は関東に帰国。関ケ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、秀忠は上杉景勝への備えとして宇都宮に残留。その後、中山道を通り叛いた真田氏を平定する別動隊の指揮を命じられました。しかし、信濃国上田城攻めに手間取り、9月8日には家康から即時上洛を命じられるも間に合わず、関ケ原の戦いに遅刻する大失態を演じます。

 

kawauso編集長

 

 

ドラマでは、この遅参に家康が激怒し、秀忠の後継者の地位が危うくなったような描写がありますが、家康が秀忠を叱責した理由は関ケ原の戦いに間に合わなかった事ではなく、兵を無暗に急がせ疲弊させた点についてであったようです。

 

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右近衛大将となり将軍職世襲が確実になる

朝廷

 

1601年3月に秀忠は大納言となり関東へ帰国します。翌年の1月には家康より関東領国の内20万石を与えられました。1603年2月12日、家康は征夷大将軍に就任し、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、嫡男秀忠を右近衛大将(うこんのえたいしょう)にするよう朝廷に奏上。1603年4月16日に任命されました。こうして秀忠の徳川宗家の家督相続が確実となります。

 

 

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征夷大将軍となり二元政治が始まる

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1605年、家康は将軍職を秀忠に譲り秀忠が第2代征夷大将軍に就任しました。こうして、将軍・秀忠は江戸城で執務し、駿府城に住む大御所・家康との二元政治体制になりますが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治をし対立は起きませんでした。

 

秀忠は将軍になると軍事力の強化を開始、将軍の親衛隊として書院番(しょいんばん)、翌年には小姓組を創設。その後、関東の大名・旗本を観閲、1610年には4万人を動員した盛大な巻き狩りを成功させました。家康は巻き狩りの成功を見て、秀忠に将軍を任せても大丈夫だと確信し、自分の死後には、家康の幼い子である徳川義直(とくがわよしなお)徳川頼宣(とくがわよりのぶ)を特に引き立てることを頼んでいます。家康は秀忠に財政の譲渡を開始、それまで駿府に収められていた年貢の多くを江戸に納めるように命じています。

 

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大坂冬の陣では家康ではなく秀忠が指揮

炎上する城a(モブ)

 

 

大坂冬の陣で秀忠は家康が出陣しようとするのを土井利勝(どいとしかつ)を派遣して止め、自分が出陣するので家康は関東の留守を守るように伝えています。家康は自分が出ると言いますが、秀忠が自ら出陣し、問題があれば豊臣を滅ぼすと土井利勝に伝えさせたので家康は引き下がりました。存在感の薄い秀忠ですが、部分部分では将軍の権威を見せ、家康を引き下がらせたりしているのです。

 

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家康が死去するとリーダーシップを発揮

ガレオン船(世界史)

 

 

家康が1616年に死去すると秀忠の親政が開始されます。秀忠は家康のブレーンである本多正純や金地院崇伝、天海、林羅山を引き続き重用する一方で、不必要と考えた重臣は親藩の付き家老にしたり、特権を奪うなどして整理し、自身を支えた酒井忠世、土井利勝ら老中を幕府の中枢として自らリーダーシップを発揮しました。また、家康時代には緩かった海外貿易に関しても中国商船以外の外国船寄港を平戸・長崎に限定し制限貿易の布石にします。

 

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将軍としてお家騒動を裁定し領地を安堵する

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以後、秀忠はなんどか上洛しながら諸大名の領地を安堵する黒印や朱印状を発給し、寺社にも所領安堵状を出しています。また娘の和子を後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の中宮として皇室と幕府の関係を強化。1622年には諸大名へ妻子を江戸に住まわすことを命じています。有力外様大名のお家騒動も自ら裁定し、最上義俊や本多正純を改易にし、参勤交代を中断した松平忠直についても隠居を命じるなど将軍の権威をこれでもかと見せつけました。

 

1623年上洛後に長男の家光に将軍職を譲りますが、家康と同様に隠居後も権力を手放さずに大御所として二元政治を開始します。1630年には娘の和子が産んだ孫、女三宮が明正天皇として即位し天皇の外戚となるなど威信を高めました。

 

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息子、松平忠長の乱行に悩み死去

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秀忠には、家光と忠長の2人の子がいて、忠長は実母の於江や秀忠に溺愛されるほど聡明で利発な人物だったようです。しかし、溺愛されて我儘で乱暴な性格になった忠長は、将軍を継げない自分の境遇に苛立ち、秀忠に過大な要求をして困らせるようになります。秀忠が嫡男の家光に将軍職を譲った後は、乱行が酷くなり、秀忠は1631年、忠長の領地を召し上げて蟄居(ちっきょ)を命じます。このころから秀忠は体調を崩し1632年3月14日に52歳で死去しました。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

kawauso編集長

 

偉大な徳川家康と比較し小粒な印象を持たれがちな徳川秀忠。しかし、関ケ原の戦いの時、秀忠は21歳であり、あまり遅参を責めるのも酷な気がします。むしろ秀忠の真価は幕府が開かれた後にあり、成長するに従い落ち着き、創業者家康の仕事を引き継いで精力的に幕府の基盤固めをするなど守成の名君と呼ばれるに相応しい能力の持ち主と言えるでしょう。

 

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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