空誓とはどんな人?家康を苦しめた三河一向宗のボス【どうする家康】


 

コメントできるようになりました 織田信長

登譽上人

 

空誓(くうせい)は浄土真宗本願寺派中興の祖である本願寺蓮如の曾孫(ひまご)にあたる僧侶です。彼が19歳で三河の本證寺(ほんしょうじ)住持(じゅうじ)になった時に起きたのが、三河一向一揆で伊賀越えや三方ヶ原の敗戦に並び、家康を苦しめた戦いとして知られています。今回は一揆の指導者空誓と三河一向一揆について解説しましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三河一向宗とは何?

Ikko-Ikko( 一向一揆)

 

三河一向宗は本證寺(安城市野寺町)上宮寺(じょうぐうじ)(岡崎市上佐々木町)勝鬘寺(しょうまんじ)(岡崎市針崎町)の三ヶ寺が勢力拠点です。一番歴史が古いのが勝鬘寺で1256年親鸞(しんらん)の孫弟子顕智(けんち)帰依(きえ)した信願房了海(しんがんぼうりょうかい)碧海荘赤渋(へきかいそうあかしぶ)に建立した道場を始まりとする説や、1258年親鸞の矢作説法(やはぎせっぽう)を聴き、天台宗から改宗した信願房了海が建立した道場を最初とする話がありますが、いずれにせよ三河で一番古い浄土真宗のお寺です。

 

15世紀の中頃、本願寺5世綽如上人(たくじょしょうにん)の分流の了顕(りょうけん)が9世住職として勝鬘寺に入寺してから隆盛をきわめますが、1496年に水害に見舞われ現在地に移動しました。

 

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家康を苦しめた三河一向宗の脅威とは?

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三河一向一揆の中心勢力は、三河三ヶ寺と本宗寺でしたが、一気に呼応して家康に抑え込まれていた三河吉良氏のほか、荒川氏、桜井松平氏、大草松平氏が呼応した事で反乱が大きくなりました。また安祥松平氏の配下だった本多正信、蜂屋貞次(はちやさだつぐ)、夏目吉信が家康を裏切り一揆に加担しました。これは家康の祖父の松平清康が安祥城や岡崎城下の浄土真宗門徒の勢力を引き込んだからであり、家康の右腕となった石川数正の家も真宗門徒でした。

 

徳川家臣団の嫌われ者・本多正信

 

このため家康は一向一揆のみならず、吉良氏や大草松平のような国内の反徳川勢力や自分の家臣たちとも戦う事になり、一時は岡崎城まで攻め込まれ大変な困難を体験します。

 

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空誓の信仰観や教義は?

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一向宗は多神教の日本の宗教としては珍しく阿弥陀如来を唯一の神として、それ以外の神仏を排斥する特徴がありました。そのため、他の仏教宗派とも激しく対立し合戦にまで発展した事もあります。

 

教義は、阿弥陀仏を信仰し浄土真宗の教えを広めて仏教王国を築く事であり、仏敵と戦う者は死んでも極楽往生間違いなしと説き、逆に命を惜しんで逃げる者は無間地獄に落ちるとしました。そのため門徒は逃げて無間地獄に落ちる事を恐れ、極楽往生を願って進んで戦い、命を投げ出したと言われています。空誓も19歳の若さながら教えを忠実に信じ、自ら鎧兜を身につけ鉄棒を奮って信徒の先頭に立って戦ったと伝承されています。

 

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空誓と家康の対決はどのように進んだ?

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三河一向一揆は、三河三ヶ寺が家康によって守護使不入の特権が侵害された事に抗議して起こったとされます。本證寺第十代住持、空誓は、上宮寺や勝鬘寺と共に檄を飛ばし、本願寺門徒を招集して家康の部下である菅沼氏の砦を襲撃しました。この一揆に呼応して真宗門徒の松平氏家臣や吉良氏などの有力豪族、今川氏残党もバラバラに一揆に加わり一時は家康の本拠地岡崎城まで攻め上り家康を窮地に陥れます。

 

 

徳川家康の馬印と徳川家康

 

 

しかし、1564年1月15日の馬頭原合戦(ばとうがはらかっせん)の勝利で家康は優位に立ち、一揆勢力と和議に持ち込み一揆の解体に成功。一揆に呼応していた吉良氏や酒井氏は孤立して追放され、小笠原氏は家康に従いました。一揆に与した武士には家康への忠誠心と信仰心の板ばさみにあって苦しんでいる者も多く和議が締結されると、それらの武士が続々と家康に帰参し一揆は収束に向かいます。

 

戦乱で本宗寺は御坊を焼失、勝鬘寺は伽藍(がらん)が焼け落ちていました。家康は弱った本願寺の寺院に他派や他宗への改宗を迫りこれを拒んだ場合は破却して三河から一向宗の勢力を駆逐します。

 

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空誓と他の宗教団体との関係は?

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三河一向一揆は浄土真宗の寺が中心になり起こりましたが、すべての浄土真宗が一揆に参加したわけではありません。本願寺教団とは仲が悪い真宗高田派(しんしゅうたかだは)の寺院である桑子明眼寺(くわこみょうがんじ)菅生満性寺(すがお・まんしょうじ)は、これまでの経緯から家康に味方しています。

 

真宗高田派の中興の祖は真慧(しんけい)という人物で、一時本願寺派をしのぐ勢いがありましたが、1460年代に本願寺8世蓮如が登場すると本願寺派が盛り返し、蓮如が真宗高田派の門徒や寺を引き抜く事件が起きて高田派は本願寺派と完全に断絶、以後両派は犬猿の仲になったのです。

 

織田信長と本願寺顕如(石山合戦)

 

この経緯は当時19歳の空誓のせいではありませんが、浄土真宗が全て一枚岩でなかった事は一揆の失敗に影響がなかったとは言えないかも知れません。

 

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武田信玄

 

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

kawauso

 

空誓は三河一向一揆に敗れた後で姿を消しますが、20年以上も経過した後で三河に戻ってきて本證寺を再興させ、さらには徳川家康に積極的に取り入り、遂には尾張徳川家藩主、徳川義直の補佐役にまでなっています。一向一揆で敗北した教訓を活かしたのは家康だけではなかったわけですね。

 

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カワウソ編集長

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