NHK大河ドラマどうする家康第13話では、本能寺の変を引き起こし日本史の流れを大きく変えた男、明智光秀が登場します。明智光秀は織田信長が登場する大河ドラマでは、ほぼ登場し今回の光秀は上品だけど嫌味な人物だそうですが、それは本当なのでしょうか?
光秀は出自に関して確たる史料はない
明智光秀は日本史で織田信長に並ぶ知名度を持っていますが、前半生はほとんど分かりません。年齢も不明で子年であると伝えられるのみであり誕生年も、1516年、1528年、1540年説があり、それ以外にも1513年説、1526年説があるなどバラバラです。
光秀当人の言葉として、先祖は足利尊氏に仕えて軍功状も所持していたが、その後零落して土岐氏の被官になったと話していて、それに従えば、光秀の先祖は南北朝期の武将、明智頼重という事になります。
江戸時代に成立した明智軍記によれば、明智光秀は若い頃、斎藤道三に仕えていたそうですが、あまり信憑性はなく俗説を排除すると光秀が歴史に登場するのは、永禄8年(1565年)とかなり遅く、足利義昭に仕えていた幕府奉公衆か細川藤孝の家来であり、義昭が織田信長に擁され上洛した際に光秀も信長に仕え、やがて義昭を見限っていく流れになります。
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明智光秀は身分は低いが教養はあった
先祖の話はともかく、本人は高い身分ではなさそうな光秀ですが義昭上洛早々に、近衛家出身の聖護院門跡の道澄、公家の飛鳥井雅敦、連歌の里村紹巴ら錚々たる人々が出座した連歌会に、細川藤孝に伴われて参加しています。
光秀と同伴した藤孝は、弘治年間から連歌会に参加している常連なので、なんの教養もない人物を同伴させるとは考えにくく、光秀が身分は低いながらも当時の日本で上流階級の前に出ても恥ずかしくない振る舞いが出来る高い教養を持っていた事が窺えます。つまり、史実から見ても、光秀には教養があった事は事実のようです。
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明智光秀は嫌味な人物だったのか?
では、明智光秀は嫌味な人物だったのでしょうか?光秀が嫌味な事を言ったという史料はありませんが、光秀が柴田勝家や滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、前波吉継のような当時の織田家の錚々たる面々に嫌われていたとする逸話はあります。
たとえば、光秀は吉田山という京都御所に近い土地を買い入れるように信長に促しますが、この時、信長に代わって土地の見分に来たのが上記の面々でした。ところが5人は新参の光秀に手柄を与えるのが嫌で、吉田山は屋敷を構えるのに向かないと信長に報告し、信長の土地購入は立ち消えになっています。
また、宣教師ルイス・フロイスも、光秀は余所者なので織田家のほぼ全員から嫌われていたと悪意に塗れた評価をしています。これらを総合すると田舎者揃いの織田家の人間から見れば、洗練された立ち居振る舞いをし信長に取り入るのが上手な光秀は、さぞかし嫌な相手だったでしょう。
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情深い一面もあった光秀
しかし、周囲の評価はともかく、光秀には情深い一面もありました。志賀郡で一向一揆と戦った際、明智軍兵18人が戦死しましたが、光秀は戦死者のため供養米を西教寺に寄進しています。この光秀の寄進状は現存していて、そこに記された18人のうち1名は武士身分ではなく中間という半農半士の身分でした。直接の家臣ではない中間の供養の為に米を寄進するのはあまりない事で、光秀の部下に対する愛情の深さが分かります。
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日本史ライターkawausoの独り言
総合すると明智光秀は出自は不明ながら、教養があって有能で信長に取り入るのが上手く、それがためライバルである織田家中に、嫌な野郎として嫌われていた事実が浮かび上がります。ただ、これは一面的な見方で光秀自身は、部下に対しては情深く慕われてもいたのです。
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