一条天皇は、円融天皇の唯一の男子として誕生します。生母は藤原詮子で祖父はダーティーさで有名な右大臣、藤原兼家でした。祖父兼家の策謀によって7歳で即位した一条天皇ですが、成人しても強引に独裁政治を開始する事なく、権力者道長と協調した事で25年間の在位の間、朝廷では大きな政変がなく穏やかで文化的な時代が続きます。今回は、安定した治世を実現した一条天皇について解説します。
この記事の目次
円融天皇の第一皇子として誕生
一条天皇は、諱を懐仁と言い天元三年(980年)に円融天皇の第一皇子として誕生しました。生母は藤原詮子で当時の右大臣藤原兼家の娘です。父である円融天皇は右大臣兼家の勢力を抑えるべく、中宮には兼家の従兄にあたりライバルでもある関白、藤原頼忠の娘、遵子を指名するなどし兼家と対立しますが、結局、男子は懐仁親王しか授かりませんでした。一方で兼家も老齢のため早期に孫である懐仁親王の即位を願っていて、両者の利害は一致。永観二年(984年)円融天皇が譲位して甥の花山天皇が即位すると、懐仁天皇は四歳で東宮(皇太子に立てられます)
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寛和の政変
懐仁親王の祖父である兼家の野望は、懐仁親王を天皇に即位させて外戚として摂政、関白となり、政治を牛耳る事でした。しかし円融天皇を継いで天皇になった花山天皇は17歳と若く、関白の地位を望んだ兼家の願いを却下し、兼家のライバルである藤原頼忠を留任させるなど、兼家の言いなりにはなりませんでした。また、花山天皇の生母である藤原懐子は、右大臣兼家の長兄である藤原伊尹の娘であり、伊尹は死去していたものの、息子の藤原義懐が権中納言に出世し、花山天皇のブレーンになりつつありました。そのため、兼家の力は抑えられ焦った兼家は、花山天皇を早期に退位させようとします。
ちょうど、その頃、花山天皇が寵愛していた女御藤原忯子が懐妊したまま17歳の若さで病死しました。天皇は落胆し、出家して菩提を弔いたいと口にするようになります。そこで、兼家は花山天皇の蔵人として仕えていた三男の道兼に命じて天皇の出家をそそのかしたのです。最初は躊躇していた天皇ですが、道兼が自分も出家すると言ったのを信じ御所を抜け出して山科元慶寺で出家します。それを見届けた道兼は寺を抜け出し、兼家に計画が上手くいった事を報告しました。
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御所を武士団で封鎖しクーデター
もはや後戻りできない兼家は、腹を括り息子達に命じて、天皇即位のアイテムである三種の神器を禁裏から東宮の屋敷へ移動させます。
そして部下である源満仲の武士団に命じて、御所の門を武士で固めて警護し、7歳になったばかりの孫の懐仁親王を禁裏に入れると、花山天皇の退位と一条天皇の即位を宣言したのです。花山天皇は道兼に騙された事を知りましたが、もう、どうしようもなく後ろ盾を失った藤原頼忠も太政大臣のポストは維持したものの関白からは退き、後任として兼家が摂政に就任します。こうして強引な手法で兼家は一条天皇の祖父として権力の頂点に立ちました。
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兼家死後、一条天皇は道隆と供に歩む
寛和の政変から4年後、兼家は病死。権力は兼家の嫡男、道隆に引き継がれます。道隆は兼家の路線を継承し、一条天皇に娘の定子を輿入れさせて中宮としました。二人の間には敦康親王が生まれ、一条天皇と定子の関係も円満で道隆が再び外戚になるのは確実に見えました。しかし、道隆は生来の大酒飲みが祟り、糖尿病を悪化させて長徳元年(995年)に病死します。こうして権力は道隆の弟、道兼に引き継がれますが、道兼は道兼で疫病に感染し、関白就任から数日で病死してしまうのです。
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伊周を推したかったが生母の説得で翻意
この時、藤原摂関家では激しい対立が発生します。それは先の関白、藤原道隆の嫡男で内大臣の地位にある21歳の藤原伊周と道隆の末弟で権大納言の地位にある28歳の藤原道長の対立でした。15歳になっていた一条天皇は、実績もないのに昇進ばかりが速くプライドが高い藤原伊周をあまり良く思っていませんでしたが、だからと言って道長とそれほど親しいわけでもなく、次の関白は直系優先で藤原伊周に指名しようと考えていたようです。ところが、ここで一条天皇の生母である東三条院局(藤原詮子)が寝室にまで乗り込んできて、次の関白は末弟の道長にするように激しく説得します。生母の涙ながらの説得で、心の優しい一条天皇は決心が鈍り、結局は内覧(天皇に上奏される文書を閲覧できる権利)を道長と定めました。
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彰子が親王を産み、道長の天下が確立
こうして道長は伊周を越えて権力を握ると、すぐに娘の彰子を一条天皇に入内させます。しかし、結婚から9年が経過しても彰子は懐妊せず、すでに産まれていた嫡男の敦康親王の存在感が高まり、敦康親王の伯父である藤原伊周の権力も次第に強まりましたが、寛弘五年(1008年)結婚10年目にして彰子は敦成親王を出産。ここに道長は将来の外戚の立場を確立し、伊周の没落は決定的になりました。一方で、一条天皇は亡くなった定子の忘れ形見、敦康親王を東宮にしたかったようですが、道長の権勢の前には、その意思を通すのは困難を極めました。
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道長と協調しつつも天皇親政を目指す
一条天皇は7歳で即位した経緯から、当初は自ら政治を行う事が出来ず、外祖父の兼家、伯父の道隆や道長兄弟の補佐の下で政治を運営しました。また、長じてからも花山天皇の二の舞を恐れ極力独断専行をせず、道長との協調を重視した政治を展開します。そのため、一条天皇の時代には政変も無縁で皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部や和泉式部らによって平安女流文学が花開く事になりました。天皇も文芸に深い関心を示し音楽に堪能で特に笛の名手でした。人柄も温和で内省的であり冬の日には、皆が寒い思いをしているのに、私だけが暖かい思いをするわけにはいかないとして、綿入りの着物を脱いで過ごすなど、人々を思いやったので、多くの人に慕われたそうです。
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猫が大好きだった一条天皇
一条天皇は愛猫家で、命婦の御許と言う名前の猫を飼育し乳母をつけて爵位まで与えていたそうです。その溺愛ぶりは甘やかしているレベルであり、ある時、命婦の御許が縁側の簀の子の上で寝てしまい乳母の馬の命婦が屋内に入るように言っても聞きません。そこで、命婦は同じく宮中で飼育していた犬の翁丸に命婦の御許を噛むように命じると、翁丸は鋭くワンと吠えて威嚇します。驚いた猫は飛び出して朝ご飯を食べていた一条天皇の懐に逃げてしまいました。一条天皇は翁丸の行いに激怒し、蔵人に命じて翁丸に体罰を加えると、滝口の武士に翁丸を淀川の中州に浮かんでいた小島に流すように命令しました。その後、翁丸は島を抜け出して宮中に戻りますが、天皇は許さず、また翁丸に体罰を加えて追い出します。その後、中宮の定子が翁丸が可哀想と天皇に直訴したので、天皇はようやく翁丸を許したのだそうです。
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32歳の若さで死去
生来の性格から、権力者である道長と可能な限り折り合った一条天皇ですが、聡明な人物でもあり、村上天皇や醍醐天皇のような天皇親政を目指したとも言われています。特に東宮については、彰子との間に生まれた敦成親王ではなく、先の皇后である定子が産んだ敦康親王を考えていたとされますが、藤原行成が道長の意向を尊重して諦めるように進言したと「権記」には書かれています。一条天皇は体が弱く、晩年には譲位の意向を道長に度々伝えていましたが、慰留されるうちに寛弘8年(1011年)5月末頃には重病となり、従兄にあたる居貞親王(三条天皇)に譲位して太政天皇となり、まもなく32歳で崩御しました。
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日本史ライターkawausoの独り言
一条天皇の在位の後半は、ほぼ藤原道長の権力が確定した時代なので、影が薄く見られがちですが、天皇が自分を律して道長と協調した事で政治が安定し、藤原実資や藤原行成、紫式部や清少納言が活躍する文化的な土壌が実現したのも事実です。本当は道長に対して鬱憤や憤懣もあったのでしょうが、天下万民の事を考えて私欲を抑えた天皇は、やはり日本史に残る名君だと言えるでしょう。
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