NHK大河ドラマ「光る君へ」において天皇に毒を盛ったり、次男道兼の殺人をもみ消したりとダーティーな事をしているのが藤原兼家です。ダークな印象の兼家ですが汚れ仕事を辞さない態度のお陰でライバルを押しのけ、一条天皇の外戚となって息子の道長に権力を継承した面もあります。今回は道長のパパ藤原兼家の人生を解説しましょう。
この記事の目次
延長2年(929年)藤原師輔三男として誕生
藤原兼家は、延長2年(929年)右大臣藤原師輔の三男として誕生しました。父の師輔は藤原北家九条流の次男でしたが、村上天皇に嫁いだ娘の藤原安子が三人の親王を産み、その中の二人が冷泉天皇と円融天皇として即位した事から長男、実頼の小野宮流に代わり藤原氏の実力者になっていきました。兼家も父の威光を受けて、早い段階から出世の階段を登っていく事になります。
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長兄、伊尹に気に入られ次兄より出世する
天暦2年(948年)兼家は従五位下に叙され、翌天暦3年(949年)には昇殿を許されます。義理の兄にあたる村上天皇の時代、兼家は左京大夫と春宮亮を兼任していました。この春宮亮とは、皇太子の御所の内政を担当する役職で、兄である藤原伊尹が宮中を掌握するために、弟の兼家を春宮亮のポストに就けたようです。康保4年(967年)、村上天皇が崩御し冷泉天皇が即位すると兄の兼通に代わって蔵人頭となって左近衛中将を兼任します。
そして翌年には兄の兼通を超えて従三位に昇進し、さらに翌年には参議を経ずに中納言に昇進しました。兄を差し置いて兼家が出世したのは、長兄で摂政の伊尹が宮中を掌握するのに、兼家の力が欠かせなかったからだと考えられています。伊尹の兼家優遇は、それだけに止まらず、兼家の娘の超子を冷泉天皇に入内させることを黙認してもらえ、天禄3年(972年)には正三位大納言への引き立てを受け、更に右近衛大将・按察使を兼任するなど、次兄の兼通を超える出世が続きました。しかし、この時、露骨に冷遇された兼通は次第に兼家を恨むようになり、兄弟の確執が激しくなっていきます。
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次兄、兼通との戦い
天禄三年(972年)太政大臣まで上った伊尹は、重度の糖尿病で体調が急激に悪化。死を悟った伊尹は辞表を提出します。伊尹が辞表を出した翌日、兼家と兼通は、次の関白には自分を任命してくれるように円融天皇に直訴、すぐに口論に及ぶなど熾烈な駆け引きを開始しました。大勢は兼家有利に見えましたが、兼通には奥の手がありました。それが兄妹であり、円融天皇の生母である藤原安子の遺言です。安子の遺言には関白は兄弟順番に就けるようにと書かれていたそうで、兼通から母の遺言を見せられた天皇は遺言に従って次兄兼通の内覧を許し、次いで関白に任命しました。こうして兼通との出世競争に敗れた兼家には、不遇の時代が訪れる事になります。
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兼通に疎んじられる兼家
兼通が関白になると、順調だった兼家の昇進は露骨に停滞します。また兼家は長女、超子に次いで、次女詮子を円融天皇の女御に入れようと画策しますが、この事が余計に兼通の機嫌を損ね、円融天皇へ讒言され入内は立ち消えになりました。兼通は兼家を激しく憎んでいて、出来る事なら九州に左遷させたいが、罪がないので出来ないと悔しがっていたようです。露骨な冷遇を受けて兼家も激しく兼通を恨むようになっていきます。
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危篤の兼通を無視して参内
しかし、兼通の天下は長くは続きませんでした。貞元2年(977年)兼通は重態に陥って床に伏し命が尽きようとしていました。兼家は兼通の死を確信しウキウキで御所へ牛車を向かわせます。ここで大いなる勘違いが発生しました。実は兼通と兼家の屋敷は仲が悪いくせに隣同士であり、両家の動向は丸見えでした。重病で臥せっていた兼通は、兼家が牛車で家を出たと聞くと、どういうわけか、兼家が最後のあいさつにきたのだと勘違いしてしまったのです。
兼通は少なからず感激し、自宅を掃除させて整え、兼家がやってくるのを迎えようとしていました。ところが、兼家を乗せた牛車は、悠々と兼通の屋敷の前を素通りします。勝手に勘違いした兼通は烈火のごとく怒り、最後の力を振り絞って牛車に乗り込み、宮中に参内したのです。もう死ぬと思っていた兼通が宮中に出現した事で兼家は仰天し逃げ出します。ここで兼通は生涯最後の除目(人事発表)を行い、次の関白を従兄の藤原頼忠に指名する嫌がらせをし、兼家を降格処分にした後、間もなく死去しました。余計な事をして出世が遅れた兼家は、円融天皇に、なんとか自分の地位を戻してもらえないかと和歌で懇願しますが、天皇は時期を待てと素っ気ない返事を返しただけでした。
天皇の使いを無視する傲慢ぶり
しかし、兼通が死んだ事で藤原氏長者は兼家に移っていました。兼通の死後、2年が経過した天元元年、兼家は関白の頼忠から右大臣に進められて朝廷に返り咲いたのです。さらに、かつて、兼通に潰された次女詮子の入内も実現します。詮子は兼家の望み通り男子の懐仁親王を産みました。
喜んだ兼家は詮子を中宮に立てようと画策しますが、円融天皇は天元5年(982年)、藤原頼忠の娘遵子を中宮とします。兼家は円融天皇に失望し、以後、詮子と懐仁親王ともども、東三條殿の邸宅に引きこもり、天皇が使者を出しても、ろくに返事もしない有様となります。円融天皇の皇子は懐仁親王一人であり、それを人質に取られたので天皇は憂慮し、最終的に懐仁親王を皇太子にするという約束を兼家に対して行う事で、ようやく兼家を参内させました。
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新たなライバルの登場
兼家との約束を守り、984年の8月に円融天皇が譲位。皇太子の花山天皇が即位し、兼家の孫である懐仁親王が東宮に立てられました。兼家は関白就任を花山天皇に望みますが、一族の長老藤原頼忠が留任となります。また政治面では、花山天皇の伯父にあたる藤原義懐が権中納言にまで昇進し、朝廷で影響力を持つようになります。50歳を過ぎていた兼家は、このままでは東宮が即位するまで生きられないと不安を感じ、自分とそりが合わない花山天皇を失脚させるための陰謀を巡らしました。
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花山天皇を出家させる策謀
その頃、花山天皇が寵愛していた女御・藤原忯子が懐妊しながら病死する事件が起きます。花山天皇は気落ちし出家して、忯子の菩提をとむらうと言い出しました。兼家はこのチャンスを逃さず、兼家の三男で花山天皇の蔵人だった道兼に命じて花山天皇をそそのかして宮中から連れ出し山科の元慶寺で出家させ退位に追い込むことに成功します。藤原義懐も天皇とともに出家し兼家の敵はいなくなりました。こうして懐仁親王が一条天皇として即位し、兼家は天皇の外戚となって摂政となりました。
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藤原頼忠と左大臣源雅信が障壁に
しかし右大臣、兼家の上司には、まだ前関白の太政大臣藤原頼忠と左大臣の源雅信がいました。特に雅信は宇多天皇の孫で臣籍降下した人物で、円融天皇の信任篤く、公卿の筆頭である一上でした。また、円融天皇も次の花山天皇も藤原摂関家の影響力を削ぐために、太政大臣頼忠を無視し、職務を雅信に務めさせて天皇親政を実現させようとします。このように朝廷を牛耳ろうと考えている兼家にとって雅信は同族の頼忠以上の障害になっていましたが、雅信は有力皇族との繋がりがなく、謀反など失脚させる理由も見つかりませんでした。
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右大臣を辞職し超法規的立場になる
そこで兼家は驚きの手段に出ます。手始めに天皇の外祖父として従一位、准三宮の待遇を得ると右大臣を辞任したのです。准三宮とは、本来、太皇太后、皇太后、皇后に与えられる身分で皇族に准じた扱いを受ける権利です。こうして雅信の部下でなくなった兼家は准三宮として、太政官を通さず、直接幼い天皇に代わって政治を進めていきました。兼家は准三宮の権限を最大限に利用し、嫡男道隆や道長を公卿に抜擢したり、太政官の事務職員である弁官を全て自分の派閥で固めるなど強引な手法を推し進めました。永祚元年(989年)には円融法皇の反対を押し切って嫡男、道隆を内大臣に任命、源雅信の影響力を削ぎ、藤原摂関家の影響力を拡大していきました。
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修羅の道を開き病死
989年、長く太政大臣だった藤原頼忠が死去すると、兼家は、すぐに太政大臣に就任します。そして、翌永祚2年(990年)には自分の孫である一条天皇の元服に際し加冠役を務める栄誉を受けました。こうして兼家は念願の関白に任じられますが、その頃にはすでに体調を崩していて、僅か3日で関白を嫡男道隆に譲って出家。その2ヶ月後に62歳で病死します。
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日本史ライターkawausoの独り言
藤原兼家は、父である右大臣、藤原師輔、さらに長兄、藤原伊尹の引き立てを受けて、次兄、兼通を越えるトントン拍子の出世をしました。しかし、そのせいで兼通に恨まれ、長兄伊尹の死後は5年間の不遇時代を経験します。しかし兼通が死ぬと返り咲き、自分の意のままにならない花山天皇を譲位に追い込み、上役で天皇の信任が厚い、源雅信の権力を准三宮の立場を利用して削ぎ、太政官の人事を自分の派閥で埋めるなどして、藤原摂関家の政治基盤を盤石にしました。兼家は関白になって間もなく病死しますが、権力基盤は、息子達に受け継がれ、道長の時代に全盛期を迎える事になります。
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