伊予国(現在の愛媛県)の守護も歴任した河野水軍でしたが、1585年(天正13年)に、羽柴(豊臣)秀吉の「四国攻め」によって滅亡しました。しかし、分家の末裔は数多く、後世に生き残ったと言われています。
その中でも注目すべきは、「武田信玄(1521年〜1573年 )」と「徳川家康」に仕えた河野一族の者がいたということなのです。調べてみましたので、ご紹介します。
武田信玄の傘下に入った河野水軍?
伊予水軍として名を馳せた河野一族は、戦国時代末期、本家の血筋は、確かに滅亡したのですが、戦国時代を生き抜き、江戸の徳川時代に入ってからも活躍した分家の者たちがいたようです。中でも、注目なのは、戦国時代に、伊予から甲斐国(現在の山梨県)に移り住んだ河野一族です。
しかも、戦国の雄として名高い、甲斐の武田信玄に仕えた者たちがいたというのです。例えば、「河野通重(但馬守【タジマノカミ】)」と「河野盛政」という人物がいました。二人とも武田信玄に仕えていたと伝わっています。
但馬守と呼ばれた「河野通重」とは?
まずは、一人目の河野通重です。この名を持つ人物は、江戸時代を通して、何人もいたという記録が残っていますが、その中で、ここで取り上げるのは、「但馬守」とも呼ばれた「河野通重」を取り上げます。1510年に生を享けた人物として伝わっています。これが事実なら、武田信玄よりも約10年も年上ということになります。代々伊予国に住んでいて、通重の代に甲斐の武田信玄に仕えたということです。
信玄の亡き後、次代の武田勝頼にも仕えましたが、天正10年(1582年)の武田家滅亡後は、徳川家康に仕えたということです。それと同時に「甲州九口之道筋奉行」と呼ばれた、甲州街道や甲斐の国境付近の警備を任される役職についたようです。
その後、徳川家康 と羽柴(豊臣)秀吉の直接対決になった「小牧・長久手の戦い」(1584年)にも徳川勢に従い、参戦したそうです。
そして、1595年に86歳の長寿で生涯を閉じたと伝わっています。通重の子孫は、徳川幕府の旗本の身分となり、「八王子千人同心」の頭の一家として、幕末まで代々続いていくことになったのです。
【※ちなみに、「八王子千人同心」 とは、徳川家の直轄地となった八王子地域の警護とともに、日光東照宮や日光街道、甲州街道の警備などを担う立場でした。】
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通重より前に甲斐国にやって来ていた河野一族の存在
さて、ここで、一つの疑問が出てきます。なぜ、通重は、甲斐の武田信玄に仕えたのか?ということです。四国の伊予から、東国の甲斐までは、当時の感覚で言えば、かなり遠い訳です。そこで 調べてみますと、次のような事実が判明したのです。実は、通重が来るより前に、すでに甲斐の武田家に仕えていた、河野水軍の分家の者がいたというのです。
それは、「応仁の乱」(1467年)の頃まで遡ります。乱の後、戦国時代初期の1480年代かと思われるのですが、「河野通房」という人物が、甲斐の国に入り、武田家に仕官したらしいのです。元々、この人物は、河野水軍の「予州家」という分家の出身でした。
応仁の乱の混乱と同時進行で起きていた、河野水軍の本家の「河野宗家」と分家「予州家」の争いに巻き込まれないために、甲斐の国へ来たのかとも推察されます。その通房の子の「河野通政」の代になると、甲斐の当主は、信玄(晴信)の代に入り、そのまま仕えることになったようです。さらに、その子の「河野盛政(1541年〜1617年)」も信玄に仕えました。そして、この河野盛政が、注目している二人目の河野一族です。
この人物は、通重同様に、武田家滅亡後に、徳川家康に仕えました。さらに、江戸(徳川)幕府成立初期まで生き抜き、旗本として活躍した人物なのです。
その後の「関ヶ原の戦い」(1600年)と「大坂の陣」(1614年〜1615年)の二度にわたる大戦を乗り切り、二代将軍・徳川秀忠の代まで仕えたと言われています。その子孫は、代々徳川幕府の旗本として仕えたのです。ただ、この時点では、なぜ複数の河野一族が、甲斐の武田家に仕えたのか?という疑問がまだ残っています。
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原因は、承久の乱だった?「美濃河野氏」と「信濃河野氏」の存在
調べてみると、原因は、鎌倉時代前期に起きた、「承久の乱(1221年)」にあるようなのです。
承久の乱によって、河野一族の多くは、後鳥羽上皇方の朝廷に味方したため、敗軍となり、当主だった「河野通信」を始め、地方への配流という形で処分されました。
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その中で
美濃国二木(現・岐阜県大垣市墨俣付近)
信濃佐久郡(現・長野県臼田町小田切付近か)
などに配流された一族の者がいたようなのです。子孫は、そこに土着し、それぞれ、「美濃河野氏」や「信濃河野氏」と呼ばれるようになったのです。そして、そこから比較的近い甲斐の国に行き着いた一族の者たちが、すでに幾人もいたと考えられないでしょうか。
なぜなら、甲斐は、「甲斐源氏」の血を引く、武田氏の領地だったからでしょうか。そもそも、平安末期の源平合戦のときでも、河野氏は、源氏との結びつきが強かったようです。
鎌倉幕府成立後も、源氏の将軍家を重んじていたようです。
承久の乱の直前に、三代将軍の源実朝が、斬殺されたことで、源氏の将軍家は絶えました。鎌倉幕府に加担する理由が消えたようなものと考えられます。
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おわりに
さらに言えば、伊予河野氏は、今治・大三島の大山祇神社の神職を務めた「越智氏」から派生した同族と伝えられています。つまり、皇族の朝廷を重んじる傾向も強かったのです。河野一族は、平安時代以来の武家の名門と言われてきました。皇族や名門の武家の血筋を大事にするという傾向が強かった一族かもしれないと思えてきます。
【了】
【主要参考書籍】
・『徳川家康文書の研究〈新装版〉上巻』(中村孝也 著・吉川弘文館)351頁
・『中世河野氏権力の形成と展開』(戒光祥出版・石野弥栄 著)
・八王子千人同心の歴史について(八王子市のWEBサイトより)
・愛媛県生涯学習センターWEBサイト『えひめの記憶』より
・『寛政重修諸家譜』
・『八王子千人同心史料 河野家文書』(雄山閣・村上直 編 1975年)
など