現代のサラリーマンと戦国武将の大きな違い、それはもちろん色々ありますが、特に大きいのは給料のあり方でしょう。基本給、能力給、資格給、勤続年数等の合計で貰える給料が決まる現代と違い、戦国時代は槍働き1つで、一夜にして給料を100倍にする事も夢ではありませんでした。
そんな戦国武将の夢のステージが合戦終了後に開かれる論功行賞だったのです。
論功行賞とは?
論功行賞とは、功を論じ賞を行うという意味で、功績の有無やその大きさを調べてそれに応じた賞(恩賞)を与えるという四字熟語です。論功行賞の語源は、三国志魏志の明帝紀で以下のような内容です。
西暦226年魏の文帝(曹丕)が崩御し、息子の曹叡が明帝として即位した。
その3か月後、呉の将軍、諸葛瑾、張霸が魏に侵略してきた。
これに対し、魏は撫軍大将軍の司馬懿が張霸を斬り、征東将軍の曹休は、その別将を尋陽に破る。
この二人の功績について功を論じ賞を行うに、おのおの差があった。
このように、司馬懿と曹休では、恩賞に差があったと書かれています。論功行賞は功績によって与えられるので、恩賞の大きさが変わるのが宿命であり、その為、大きな恩賞を受けた人はいいですが、思ったより恩賞が少ない人は遺恨を持ちやすく、論功行賞の主催者は、極めて慎重になる必要がありました。
恩賞に不満で中村氏を辞めた渡辺勘兵衛
恩賞の少なさに不満を持ち、主を代えた戦国武将には、渡辺了(通称勘兵衛)がいます。
永禄5年(1562年)近江国浅井郡の土豪の家に生まれた勘兵衛は、槍の勘兵衛と呼ばれた名手で、当初は、浅井氏配下の阿閉貞征に仕え、摂津国吹田城攻めで一番首を挙げ、織田信長から直接賞賛されました。
その後、天正10年頃から羽柴秀吉に仕え、2000石の扶持を受けて、秀吉の養子、羽柴秀勝付きとなり、山崎の戦いや賤ヶ岳でも活躍し、石田三成家臣の杉江勘兵衛、田中吉政家臣の辻勘兵衛と並んで三勘兵衛と評された程でした。
その後、主君の秀勝が若死にしたので浪人になり、豊臣秀次家老の中村一氏に3000石で仕えます。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐での、伊豆山中城攻めでは、秀次の先鋒が中村勢であり、勘兵衛が先陣を切って一番乗りを果たしました。
秀吉は、勘兵衛の功績を讃えて、「捨てても1万石はあるべき」と言いましたが、主君の中村一氏は3000石の倍の6000石しか与えませんでした。これに不満を持った勘兵衛は、中村一氏の元を去り、浪人しています。
一方、主君の中村一氏は、山中城攻略の手柄で戦後、関東に移封となった家康の抑えとして駿河府中14万石を拝領し、近江国水口岡山城主だった6万石から倍以上の出世を果たしたのですから、勘兵衛に6000石は、いくら何でもケチな気がします。
これでは、一番乗りに命を張った勘兵衛が逃げるのも無理はありませんね。
恩賞の種類
では、合戦では、どのような行為が手柄と認められたのでしょうか?
ここで、少し詳しく見てみましょう。
①一番槍…最初に敵と槍を突き合せる事、または敵に槍を突き入れた人
②一番太刀…先陣を切って敵に太刀を仕掛け攻め入る事
③一番首…身分に関係なく、最初に敵の首を挙げる事
④一番乗り…城や砦に他に先駆けて一番に到着する事
⑤太刀打ち…太刀で敵を仕留める事
⑥組打ち…敵を組み伏せてから首を獲る事
⑦槍先…槍で敵を仕留めて首を獲る事
⑧突き槍…敵を槍で数多く突く事、または突いた人
⑨槍脇…槍を駆使して味方の手柄を援護する事
➉崩際…敵が敗走を始めた時に追撃に活躍する事
⑪殿槍…味方が退却する時に最後尾で味方の退却を助ける事
⑫負傷者の救助…味方で負傷したものを砦や城に連れて行く事
こうしてみると、①から④まで、一番という言葉が目につきます。戦国武将だって死ぬのは怖いので、敵を前にすれば足が竦むものですが、一番はその恐怖を振り払い、味方を導く存在なので、手柄としては後世までの誉れとされました。
例えば、徳川家康の家来だった小栗忠政は、度々、一番槍の手柄を挙げたので小栗家も幕末まで徳川家の旗本として厚遇を受けています。
関連記事:戦国時代のお葬式はどんなだった?現在の葬儀の原型は戦国時代にあった!
雑兵には論功行賞がない
戦国で一旗揚げたい人には、夢の舞台でもあった合戦ですが、論功行賞の対象になるのは、ある程度名のある武士だけで、徴用される雑兵が手柄を立てても論功行賞には預かれませんでした。雑兵の恩賞は、乱取りのような略奪であり、それまでは死なないように無理をせず、指揮官の命令に従っていれば良かったのです。
なんだかガッカリですが、雑兵の多くは毎年9~10月の端境期の食糧不足を乗り切るために、略奪目当てで従軍している者が多く、手柄なんかよりいくら戦利品を得られるかが重要でした。
【次のページに続きます】