戦国時代

衝撃!武田信玄は略奪でヒャッハーする為に選ばれた!

武田信虎を追放する武田信玄

 

甲斐の虎、武田信玄(たけだしんげん)、彼は暴虐な父、武田信虎(たけだのぶとら)に代わり甲斐の国を平穏に治める為に甲斐の国衆に擁立された、そんな文脈で語られる事が多い戦国大名です。

 

でも、それは虚像で、ホントは父の信虎よりも他国に大規模に攻め込み、ヒャッハーして儲けさせてくれるから国衆に選ばれたという衝撃の説があるのです。

 

武田信玄は、戦国最強のヒャッハー大名

singen-takeda(武田信玄)

 

そもそも戦国大名は、どうして外へと領土を広げていったのか?

少し前まで、その解答は「天下統一の野望のため」でした。

 

しかし、現在では、戦国大名の領土拡大は高邁(こうまい)な野望ではなく、頻繁に起きていた天変地異による飢餓(きが)の恐怖から領民を解放する為だったとする説が有力です。そこにあるのは、他人の領地に押し込んで食糧を奪い取り餓死する恐怖から免れるという生死を賭けた行動原理でした。

 

炎上する城a(モブ)

 

他人から奪う事が出来た人間だけが生き延び、そうでない者は死んでいく。戦国とは、そんな弱肉強食、北斗の拳と大差ないヒャッハー集団がしのぎを削る時代であり、そんな戦国ヒャッハーの代表こそが武田信玄でした。

 

領国内の飢えを救う為に領地を拡大する信玄

 

甲斐国は、富士山の火山灰の堆積で実りが悪く、飢餓に陥りやすい条件が整っていました。それゆえに当初、信玄は領国の中心である国中地方を救うために甲斐国を統一し、さらに飢えた甲斐国を救う為に、甲斐国の外へと領国を広げていったというのです。

 

武田家のとめどない領土拡大は、自分達が略奪して飢餓に陥った人々に対し、

 

「悔しいか?悔しければ我らに加わり他国から奪え、他国を蹂躙(じゅうりん)し、その富を搾り取って豊かになれ」と呼びかけて武田軍に編入し、次々と他国へ侵攻していった成果でした。

 

【無敵の騎馬隊を率いて天下を夢見た武田信玄の生涯】
武田信玄

 

父、信虎より「領民には」優しかった信玄

三国志のモブ 反乱

 

信玄の父、信虎が追放された時、甲斐領国の人々は歓喜してこれを「世直し」と称えたそうです。この世直しの具体的な内容は不明ですが、それが信玄堤のような中長期的な治水工事とは考えにくく、もっと、短期的な何かであった筈です。

 

作家、伊東潤(いとうじゅん)氏の推測では、それは信虎時代よりも、無秩序な略奪の許可だったそうです。信玄は飢えに苦しむ領民に対し、最初に蔵米を放出して救い、ある程度の蓄えを与えた後に、飢餓克服の次の段階として、他国へ富を奪い取りに行くと宣言しました。

 

軍議

 

合戦に勝てば、無秩序な略奪が許され豊かになれる。この一点で国衆も領民も信玄を支持し、上下が団結して鉄の軍団になったというわけです。しかし、それは奪い取られる側から見れば、無慈悲にして狂暴な悪魔の来襲でした。武田信玄が山梨県の周辺国で、評判が悪いのは無理もない事でしょう。信玄が無制限ヒャッハーを許した事で最強、武田軍団は維持されたのですから…

 

甲陽軍鑑に見るヒャッハーの証拠

book-Suikoden(水滸伝-書類)

 

甲斐の領民が平穏で飢えるより、危険でも豊かさを求めた証拠は甲陽軍鑑(こうようぐんかん)にも出てきます。

 

そこでは、甲斐の領民がおらが殿(との)「信玄」を自慢するのに、

「占領地で乱取(らんど)りできるので、甲斐の領民の暮らしは豊かになった」という一節があるそうで、信玄が

「飢えたくない、豊かになりたい」という領民の欲望を満たしたいが故に、領地を拡大させた様子が分かります。

 

武田信玄は、甲斐の領民や国衆にとり、戦争に強く儲けさせてくれるという意味で、紛れもない名君だったと言えます。これは、従来の武田信玄像を大きく変える、新しい視点かも知れません。

 

信虎はヒャッハーさせないから叛いた

甲斐統一を果たす武田信虎

 

武田信玄の父である武田信虎は、決して暴君ではありません。

 

日本で1.2を争う背きやすい国衆を甲府に集団で住まわせて監視の目を届かせ、城下町を形成しようとしたり、一族間の家督争いに勝ち抜き、長年の仇敵だった今川家とも、花倉(はなくら)の乱で家督争いが起きた時、すかさず今川義元(いまがわよしもと)を支援して縁組をし、良好な関係を築くなど、息子の信玄に勝るとも劣らない名将でした。

 

悪い顔をしている今川義元

 

しかし、信虎は、同時に国内の小競り合いに明け暮れ領民には重税を課していました。

 

特に、武田信玄に家督を奪われた頃は、天文(てんぶん)の大飢饉という日本全体を飢餓が覆っていた時代であり、税を搾り取るだけで、少しも儲けさせてくれない信虎に、国衆や領民が大きな不満を持っていた時期でもありました。

 

信虎からすれば、

「もう少し待て、もうちょいで信濃を落として獲物を獲ってきてやっから!」

 

という気持ちだったかも知れませんが、国衆も領民もガマンできず、信虎が義理の息子である今川義元を駿河に表敬訪問した隙に、嫡男の武田晴信を担ぎ出してしまい、信虎を駿河で足止めさせ甲斐に入れなかったのです。

 

武田信玄死去

 

もし、天文飢饉が無ければ、信虎の信濃侵攻が順調に進み、国衆はヒャッハーの恩恵に預かり、信玄の出番は大幅に遅れたか、あるいは無かったかも知れません。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso

 

武田信玄は、一代で甲斐本国、信濃、駿河、西上野(にしこうずけ)および遠江(とおとうみ)、三河、美濃、飛騨(ひだ)などの一部を領有しました。この飽くなき征服欲が武田信玄個人の欲望ではなく、飢えに苦しむ領国の人々の願望の結果として出現したのだとしたら、戦国時代の見方というのが、大きく変わってしまうような気がしますが、いかがでしょうか?

 

参考文献:歴史人 戦国史を地図で読み解く 戦国武将の国盗り変遷マップ

 

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