「踊り念仏」で知られる一遍は、蒙古襲来の「元寇」が切っ掛けで、日本の各地を行脚するという遊行の活動に出た可能性が高いようです。そのため、元寇の戦場になった九州での遊行活動に力を入れていたように見えます。中でも豊後国(現在の大分県)で、特筆すべき活動をしていたように見えてきました。
「別府温泉」では、傷病を治癒するために一般庶民に湯治を勧め、また、豊後国の守護「大友頼泰」との出会いもありました。頼泰は、一遍の経済的パトロンとなった人物でもありました。さらに、一番弟子となる「真教」と出会ったのも豊後国内でした。
その後、一遍の周りに弟子たちが集うようになっていき、その弟子たちと共に遊行を行ったのです。しかも、その弟子たちも、とても人を惹きつける魅力があったようです。今回は、特に、一遍の一番弟子と言われる「真教上人」について書いていきたいと思います。どうぞご一読ください。
真教は一遍より年長だった!別名はタアさん?
まず、真教と一遍との出会いは1277年(建治3年)と言われています。その場所は、豊後国守護の大友頼泰の治める領内か、頼泰の邸宅内とも伝わっています。このときの真教の年齢は40歳か41歳だったようです。一遍上人は、この時点では38歳でした。真教は一遍より2〜3歳も年上ということになります。
しかし、真教の出自は、謎に包まれているようです。豊後国内の生まれとも京都からやって来たという説もあります。一説では、貴族の藤原一族の一人か、歌人として名を馳せた「藤原定家」の子孫かとも言われているのです。しかし、それは、あくまで噂の域であり、確証はありません。
ただ、藤原一族の縁戚かもしれないという説には、真実味があるのです。何故かについては、後ほど説明します。さて、話を戻しますと、一遍に帰依した真教は、一遍から「他阿弥陀仏」の名(法号)を授けてもらいました。そのことから、略して、「他阿(タア)」 と呼ばれたようです。一遍が亡くなるまでの12年もの間、付き添って行動を共にしたと言われています。そして、この後、「他阿弥陀仏」という名が、歴代の遊行上人の法号となったということです。
事実上の「時宗」教団を創ったのは真教上人だった
次に、真教(他阿)は、一遍の死後、どのように行動したのかを見ていきます。一遍が亡くなると、真教を含めて、それまで一遍の元に集まっていた人々は分散し、集団としては自然消滅していく予定だったようです。そもそも、一遍は、寺や草庵なども建てず、一つの場所にとどまらず、さらに、教団のような組織も作らずに、ただ一人で各地を遊行することを大事としていたようです。
ですから、一遍の遊行活動は、1代限りで終わる予定だったのです。つまり、教団の創設と寺院の建立は、一遍の意志に反するということになるのです。そのため、真教自身は、一遍の死後、後を追い、命を捨てる覚悟だったようです。念仏を唱え、そのまま往生を待っていたようです。しかし、一遍の死を知った、多くの一遍を慕う人々が、真教のもとに集まってきたというのです。
結局、真教は、一遍の教えを受け継ぐという形で、「時衆(時宗)」という教団を立ち上げ、一遍の活動の功績を後世に伝えようとしました。具体的には、各地に念仏道場や寺院を建立することで、布教の場所を作ったのです。後に、真教は、遊行上人二世と言われるようになりました。(※ちなみに、一遍の「時宗」は、鎌倉時代から室町時代初期までは、「時衆」と書くのが一般的だったようです。
これは、鎌倉時代においては、鎌倉幕府の8代執権「北条時宗」の名と被るのを避けたとも考えられそうです。)
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歌人としても有名だった真教上人
ここで、真教の足跡をもう少し深く辿っていくと、興味深いことが見えてきました。それは「歌人」でもあったという事実です。和歌の素養があり、多くの和歌を残しているのです。
例えば、
『一遍上人絵詞伝(えことばでん)』に32 首
『他阿上人法語(第8巻)』に271 首
『他阿上人和歌集(水戸彰考館本)』に1419首
というような具合です。さらに、鎌倉武士であった「勝間田(藤原) 長清」が編纂したという『夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)』にも、30首ほど収録されているというのです。ここで、真教の和歌をいくつか紹介します。
・うれしとて 春をば祝へ 来る年に死ぬる命の 末ぞ近づく
・のどかなる 水には色も なき物を風の姿や 波と見ゆらん
・花も見ず 糸も乱れぬ 心には わきて(別きて)おのれ(己)と 何をかはしる
(※これら3首は、何れも『他阿上人和歌集』に収録されていて、原文はカナカナ表記の部分が多いのですが、分かりやすく漢字と平仮名の表記にしました。)
何れの歌も、師匠の「捨聖」と呼ばれた一遍上人の教えを受けていたことを証明するかのように、生きながらにして、命を捨てるように、しかし、穏やかに命を全うしようとしている精神を表しているかのようです。そして、一遍の和歌は、現代に70首ほど残っていると言われていますが、一遍自身は、和歌を書き残してはいなかったのです。真教が書き残していたというのが有力な説です。
真教自身が和歌の素養があり、多くの和歌を残しているため、師匠である一遍が詠んだ和歌も、一緒に残したいという気持ちが強かったのでしょうか。そして、これが真教の大きな功績とも言えるかもしれません。つまり、一遍の生の言葉を後世に残す活動をした訳です。
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真教は貴族との親交が深かった
ここで、さらに注目すべきは、真教は公家の藤原一族との交流があったということです。例えば、「冷泉為相」と「京極為兼」との交流です。両人とも、藤原一族の親族です。冷泉為相は、歌人「藤原定家」の孫で、京極為兼は、定家の曾孫にあたるようです。ちなみに、藤原定家は、『小倉百人一首』の撰者であり、『新古今和歌集』の編纂に関わった人物です。
『新古今和歌集』は、2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場した「後鳥羽上皇」による勅撰和歌集ですね。そして、そのことが、真教は藤原一族の出自かと言われる所以でしょうか。つまり、藤原一族との交流があったために、貴族だったのか?との噂が広まったのでしょう。
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日本史ライター、コーノの独り言
さらに、真教が歌人としての素質があったことは、一遍の教えが広く受け入れられた理由になると思われます。それは「歌を詠めること」=「教養あること」の証明にもなるからです。つまり、貴族や皇族や上級武士などの権力者に近い階級にも受け入れられることになった理由になるのです。真教上人の存在があったからこそ、一遍の教えが後世に残った訳です。一遍の影に隠れた、時宗の教えを広めた立役者だったということになりますね。
【了】
【主要参考資料】
・『時宗二祖他阿上人法語』真教 著 [他](大蔵出版)1975年
・『日本仏教をささえた33人』藤島達朗 著(法蔵館)
・『庶民信仰の源流 時宗と遊行聖』橘俊道・圭室文雄 編 (名著出版)
・『日本の歴史 8 蒙古襲来』黒田俊雄 著 (中央公論新社)
など