北条時宗とはどんな人?蒙古襲来を二度も跳ね返し燃え尽きた執権の生涯

08/01/2022


北条時宗 (坊主)

 

北条時宗(ほうじょうときむね)は鎌倉幕府の8代執権(しっけん)で日本史上の大事件蒙古襲来を乗り切った人です。

 

18歳の若さで執権になった時宗は32年の短い生涯を全力で駆け抜け、モンゴル帝国と戦い続け日本の独立を守りました。今回のほのぼの日本史では、北条時宗を解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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建長3年北条時頼の子として誕生

京都御所

 

北条時宗は建長(けんちょう)3年(1251年)5月15日5代執権北条時頼(ほうじょうときより)の嫡男として鎌倉の安達氏邸(あだちしてい)に誕生します。時宗には時輔(ときすけ)という兄がいましたが庶子(しょし)だったので時宗が後継者となりました。

 

7歳の時の元服式は将軍御所でおこなわれ征夷大将軍宗尊親王(むねはるしんのう)烏帽子(えぼし)を被せ偏諱(へんき)として宗の一文字をもらい時宗となります。元服式は北条一門や得宗被官、公家が列席する盛大なものでした。これはとりもなおさず、時宗が北条得宗家の次期棟梁である事をPRするセレモニーだったのです。これらの強大なプレッシャーは蒙古襲来もあいまって時宗の心身を蝕み早すぎる死を迎える遠因にもなりました。

 

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小侍所別当として帝王学を学ぶ

軍議(日本史)モブb

 

文応元年(1260年)時宗は将軍の供奉(ぐぶ)などを務める小侍所(こさむらいどころ)別当(べっとう)に就任します。

 

小侍所別当就任は、将来執権となる事が運命づけられた時宗に政治的な経験を積ませる目的でしたが、同時期に先任の別当だった北条実時(ほうじょうさねとき)は思慮に富んだ教養の深い人物であり時宗は実時の指導を受けて人格を磨いたと言われます。

 

翌年4月には安達義景の娘の堀内殿と結婚、文永元年(1264年)7月6代執権の北条長時が出家し北条政村が7代執権となると14歳の若さで執権を補佐する連署に就任。北条一族の実時と協力し幕府転覆を計った宗尊親王の廃位と京都への送還、惟康親王(これやすしんのう)の擁立をしています。

 

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18歳で執権に就任フビライに立ち向かう

フビライ・ハーン モンゴル帝国

 

文永(ぶんえい)5年(1268年)高麗王国より元の皇帝フビライハーンの国書が大宰府にもたらされ鎌倉へと移送されました。国書はフビライへの服属を求める内容で国内は騒然となります。その騒動の渦中で執権北条政村(ほうじょうまさむら)が時宗に執権職を譲り、時宗は18歳で未曽有(みぞう)の国難、蒙古襲来に対応する行政の頂点に立ちました。

 

時宗は妻の堀河殿の異母兄である有力御家人安達泰盛(あだちやすもり)御内人(みうちびと)(北条得宗家直属の家臣)平頼綱(たいらのよりつな)の補佐を得つつ、(げん)の国書についての対応を協議します。同時に国内御家人の引き締め策として国内の公領と荘園の田地面積や所有関係を記載した大田文(おおたぶみ)を作成。

 

五重塔(仏塔)仏教

 

さらに御家人の貧窮の原因になる所領譲渡の制限、異国警固体制の強化や寺社を総動員しての異国調伏の祈祷等の施策を取りました。

 

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時宗は外交関係では中立を貫く

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

元からの国書は度々届きましたが時宗は一切返事をせず、朝廷が作成した返書も採用していません。しかしだからと言って挑発的でもなく高麗の残党で元と戦っていた三別抄の援軍要請も黙殺しました。時宗の対応は徹底した中立であり「日本に構うな」というものでしたが、文永8年(1271年)元の使節が再度来日して武力侵攻を警告すると少弐氏(しょうにし)を筆頭とする西国の御家人に戦争準備をさせ異国警固番役を設置します。

 

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自分に叛く者を容赦なく処罰・粛清

三国志のモブ 反乱

 

元との戦いが回避不能となると時宗は日本の権力を自分に集中させようとします。

 

文永9年(1272年)には六波羅探題(ろくはらたんだい)の南方の別当で異母兄(いぼけい)であった時輔が時宗の執権職就任に不満を持ち朝廷に接近したのを殺害。北条一族でも評定衆の北条時章(ほうじょうときあきら)教時(のりとき)兄弟を誅殺(ちゅうさつ)世良田頼氏(せらたよりうじ)を佐渡へ島流しにしたほか、立正安国論(りっしょうあんこくろん)を幕府に上程した日蓮(にちれん)を佐渡に流すなど元や朝鮮のみならず、時宗に反抗する者を容赦なく粛清(しゅくせい)挙国一致(きょこくいっち)の体制を作り上げていました。

 

得宗家への権力集中傾向は時宗死後も継続され、全国の守護・地頭の大半に北条得宗家の縁故者が就くようになり御家人の不満を集め討幕へと進んでいきます。

 

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元の使者を斬り降伏要求を却下

攻め寄せる蒙古兵(モンゴル)

1274年文永の役が発生し、元と高麗の連合軍は対馬を陥落させ九州の博多に上陸しますが、九州の御家人は勇敢に戦い元軍は陸地に拠点を置けずに退却します。勝利の翌年、元より降伏を勧める使節、杜世忠等が来日すると時宗は連署(れんしょ)北条義政(ほうじょうよしまさ)の反対を押し切り処刑しました。

鉄甲船

 

これを受けて義政は連署を辞職して出家、時宗はさらに弘安2年(1279年)に来日した周福等の使節団も鎌倉に向かわせずに大宰府で処刑します。野蛮な振る舞いに見える元の使節の処刑ですが、時宗としては戦争が継続中であり、こちらが譲歩するつもりはない事を見せつけるつもりでした。

 

さらに時宗は元の侵攻をまたずに高麗出兵を画策しましたが軍事費などを勘案した末に中止しています。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

国内支配を強め独裁権力を得る時宗

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

時宗は国内の防備をさらに強化し異国警固番役(いこくけいこばんやく)を拡充し、長門探題(ながとたんだい)、長門警固番役を新たに設置、文永の役を教訓に博多湾岸に石の防塁を構築します。

 

特に石類の建造や警固番役には御家人だけではなく寺社本所領の非御家人に対しても国難を理由に兵や兵糧の調達を実施したので鎌倉幕府の支配権は西国において強化される事になります。同時に時宗は北条一族を九州などの守護に相次いで任命し現地へ下向させて支配権を強化し、それまで将軍権力であった御恩沙汰を執権がおこなうなど得宗家の専制体制が強化されました。

 

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ながら日本史

 

弘安の役で再度元軍を追い払う

蒙古兵を弓矢で追い払う鎌倉武士

 

弘安4年(1281年)の弘安の役では文永の役に比較して日本側の準備は整い、作戦指示は時宗の名義で出され、御内人が戦場へ派遣され部隊を指揮。2カ月の戦闘で日本軍の抵抗に苦戦した元軍は退却を決意しますが途中台風に遭遇し壊滅しました。

 

世界最強の元帝国を撃ち破った時宗ですが、元を追い払った御家人は軍事費の自己負担に悩み相応の恩賞を鎌倉幕府に求めるようになります。

恩賞を北条時宗に必死にせがむ竹崎季長

 

しかし、新しい領土を手に入れたわけではない幕府に恩賞を出す力はなく、同時に3度目の蒙古襲来に備えて軍事費が嵩むなど苦しい政権運営を余儀なくされました。この中で時宗は弘安7年(1284年)には結核か心臓病に罹り死を予期して4月4日に出家、同日に32歳で死去します。元帝国に立ち向かう為に執権になり元を追い払うと同時に使命を終えたような生涯でした。

 

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

北条時宗については批判的な意見と肯定的な意見があります。

 

それは元に対してもう少し寛容な態度を取れば、二度目の侵略を阻止できたのではないか?というものと、あの時代にはああするより仕方なく正しい措置だったというものです。

 

ただ、どちらの説を取るにせよ、時宗は現在の私たちのように、元帝国に対する正確な情報を得られる立場になかった事に対する配慮が必要でしょう。時宗は不十分な情報の中で出来るだけの事をし、結果として元帝国に服属しない道を選び多大な犠牲を出しつつ日本を守ったという事です。

 

18歳で執権の地位に立ち、そこからの14年間、ひたすらに蒙古軍の侵略に立ち向かい命を燃やし尽くした時宗は、そこに行き過ぎや、やり過ぎがあったとしても偉人と呼ぶに相応しい武士だったとkawausoは思います。

 

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元寇

 

 

 

 

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