織田信長といえば「天下布武」へ向けての快進撃で有名です。しかしその信長、家督を継いだ時点では、本拠地である尾張国内にも複数のライバルを抱えた、不安定な権力基盤からのスタートでした。
まずは尾張国を平定するだけでも、相当に厳しい戦いの連続だったのです。その中には、血を分けた兄弟との過酷な潰し合いも含まれていました。それが織田信勝(信行)との戦いでした。
この記事の目次
織田信勝(信行)とはどんな人物だったのか?
織田信勝(信行)は、織田信長の実の弟です。史料が少ないため謎が多い人物ですが、幼少期から「才知に優れた優等生タイプ」という印象だったようで、家臣団からの期待も高かったようです。
「うつけ者」の兄と「優等生」の弟
いっぽう兄の信長は奇抜な言動でしばしば家中の評判を落としておりました。そこに常識的で優等生の弟がいると、
「長男の信長は狂人で織田家の後継者には向いていないのではないか?」
「信勝のほうが後継者としては安心ではないか?」
という声がどうしても出てくるものですよね。そのような声がしだいに、家臣団の中に不穏な派閥対立を生み出していきました。
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生母・土田御前(どたごぜん)の溺愛
さらに影響を与えたのが、生母・土田御前(どたごぜん)の存在です。先ほども述べた通り、信長と信勝は同じ母親から生まれた実兄弟。ところが両者の母である土田御前は信勝を溺愛し、信長には厳しかったと伝えられています。信長や信勝自身が、この母の態度をどう思っていたのかはわかりませんが、実母が弟のほうを評価していた点は「信勝派」の家臣たちを結束させ、ますます後継者争いに火を注いだことでしょう。
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家督争いの勃発!第一の謀反「稲生の戦い」
信長の父・信秀が亡くなると、この対立はいよいよ本格化します。家督は長男である信長がいったん継いだものの、家臣の多くが「信勝の方がふさわしい」と考えており、やがて本当に稲生の戦い(1556年)という武力衝突が勃発します。
この戦いは家臣団の中での派閥争いが発端でしたが、信勝自身が明確に、反乱側のリーダーとして立っていました。彼としても消極的に担ぎだされたというよりは、「自分こそが織田家の後継者になるべきだ」という意志を持っての挙兵だったと考えられます。
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弾正忠家の分裂と林秀貞・柴田勝家の加担
さらに、織田家の有力家臣である、林秀貞と柴田勝家も、信勝派に加担しました。織田家といえば、弾正忠家と称される尾張の名門。それが重臣たちも反乱側に味方をするという異常事態に陥ったのです。そして、林秀貞と柴田勝家が信勝側についたことに示されている通り、状況は信勝に有利、信長に不利でした。
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直接対決と信長の勝利
ところがこのようなピンチも必ず突破するのが、さすがの織田信長!不利な状況だったはずの信長勢ですが、大将の信長自身が先頭に立って獅子奮迅の戦いぶりを見せたこともあり、稲生の戦いは逆転で信長側が勝利してしまいます。
母・土田御前の嘆願と「命の保証」
しかし驚くべきことに、このとき信長は、捕らえた信勝を処刑するという選択をしませんでした。兄弟間の情があったのか、母・土田御前の説得があったのか、あるいは不安定な尾張を統率するためには果断な手は取るべきではないと計算したのか?いずれにせよ、信勝は仏門へ入ることで命を許されたのです。
なぜ再び裏切ったのか?運命の「第二の謀反」
しかし信勝は出家後も、なお一部から支持を受け続けていました。その後も、信長に対して不満を持つ家臣たちが、ひそかに信勝と連絡をとり、再び反乱のタイミングを計っていたのです。結果として、織田信勝は二度目の、兄への反乱を企てることになります。
■H3:懲りない弟と、信長の包囲網
ただし、二度目の反乱は前回とは状況が異なりました。信長はあの後、権力基盤をしっかりと固め始めており、かつ「この殿はうつけではない!」と心酔する忠臣グループも育ってきていました。そのような中で反乱を計画すること自体、かなり危険なこと。知らぬ間に、信勝一派をむしろ警戒する「包囲網」が出来上がっており、信勝が反乱の計画を練ったところで、その動きは各所からの密告で信長に筒抜けだったようです。
忠臣・柴田勝家が「裏切った」理由
とりわけ信勝派の誤算は、前回は味方になってくれた柴田勝家が、この時は信長についてしまった点です。一説によると、柴田勝家は信長を見ているうちに「こちらのほうが信勝よりも優れたリーダーではないか?」と、その才能に気づいたからとも言われます。
また別の説によると、信勝派が柴田勝家を煙たがり、むしろ勝家を粛清する空気すら信勝派の中に漂っていたため、危険を感じた勝家が信長に寝返ったともいわれています。いずれにせよ、織田家中の有力者であり、すぐれた武将でもある柴田勝家が信長派に奔ったことは信勝派には致命的な結果をもたらします。
清洲城での最期!仮病を使った謀殺劇
信長はさまざまな情報網から、信勝が二度目の反乱を企図していることを知り、今度は早めの対応をとります。武力衝突に至る前に、弟を暗殺する道を選んだのです。その舞台となったのが清洲城でした。
信長の罠「仮病」の計略
信長は「病気で伏せている」と伝え、信勝を見舞いに招待しました。一度目の反乱の時に許された経緯もあり、信勝からすれば、兄が自分に対して過酷なことをすることはないという甘い見積もりだったのかもしれません。なんと、わずかな供をつれて、のこのこと清洲城に出かけてしまったのです。
北の間での暗殺実行
信勝が清洲城「北の間」に入ると、すでに配置されていた実行部隊が彼を取り囲みます。信勝は抵抗する間もなく暗殺され、ここに兄弟の悲劇は幕を下ろしました。
信勝の死が織田家に残したもの
信長は以降、信勝のことを特に話すこともなく、この一件は「昔のこと」として封印され、織田家は信長中心にまとまることとなりました。とはいえ、織田家の古参の家臣たちにとっては、「あの兄弟間の戦いを乗り越えたのだ」という想いは強く共有されていたでしょう。信長が「いざとなれば実の弟も謀殺する人物」として、畏れをもって部下に見られたことは、戦国時代の厳しい世界では決してマイナスではなかったと思います。
なぜ信長は弟殺しを決断したのか?
それにしても織田信長の対処は、冷酷でありつつも、なかなか合理的なものです。
とりわけ、「一度は許している」という免罪符を持った上での、「二度目は許さなかった」という展開ですから、見方によっては「冷酷に見える信長も、許してくれる場合もある」という印象を周囲に与えたことは、その後の天下布武の道のりを考える上でも悪手ではありませんでした。
もっとも、その後の信長も、松永久秀に代表されるような、「許してやってもまた裏切ってくる」厄介な相手に悩まされる人生となりましたが。
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信勝の遺児・津田信澄(つだのぶずみ)の数奇な運命
なお、信勝には津田信澄という遺児がいました。実はこの信澄は信長に引き取られ、厚く保護されています。これまた、信長が冷酷なだけではなく、意外な温情と気づかいを見せる場合がある例のひとつです。
ただしこの信澄は、本能寺の変が起きた際、明智光秀派と疑われて殺害されてしまいました。まことに戦国の世は過酷です。
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日本史ライターYASHIROの独り言
今回は、織田兄弟の哀しい対立とその結末を見てきました。しかし私の感想として思うところは、織田信長は案外、温情を見せる時もあるのだ、という驚きでした。むしろ整理してみると、信勝のほうこそ忘恩の傾向があり、かつ短絡的な悪手が多いように私には見えます。
厳しい戦国の世、実の弟と家督争いで対立し殺し合うこと自体は珍しくなかったでしょうが、「苛烈で容赦がない」というイメージの信長がたまに見せる温情に、私は注目してしまいます。当たり前のことながら、歴史上の人物、誰をとっても単純ではなく、その言動はまことに複雑。まして家族が絡む話ともなれば、冷酷な独裁タイプの信長ですら、時に不思議な曖昧さを後世に見せてくれる点。まこと人の世とは奥深いものです。
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