どうして柴田勝家は信長の仇討ちで秀吉に先を越されてしまったのか?

30/07/2023


 

コメントできるようになりました 織田信長

豊臣秀吉が調子に乗っているので内心キレてる柴田勝家

 

本能寺の変後、明智光秀を討った羽柴秀吉が信長の後継者になった事はよく知られています。

 

mituhide-aketi-honouji(明智光秀の本能寺の変)

 

しかし本能寺の変が起きた後には柴田勝家も仇討ちに動いていました。では、どうして勝家は秀吉に出遅れてしまったのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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距離では秀吉が86キロほど有利

 

では、最初に本能寺からの両者の距離を考えてみましょう。柴田勝家は越中国の魚津城と松倉城を包囲していて、ここから京都、本能寺までは305キロあります。一方、備中高松城を水攻めしていた羽柴秀吉の拠点からは本能寺は219キロで、距離においては秀吉が86キロ短く、当時の人間の移動速度から考えると2日分のアドバンテージがありました。

 

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本能寺の変を知った速さ

織田信長の首を持って逃げ出す弥助

 

 

もっとも距離だけでは勝敗の決め手にはなりません。今のようにネットがない昔は、いかに情報を速く入手するかが重要でした。秀吉が本能寺の変の事実を知ったのは、変から1日が経過した6月3日夜中で明智光秀が毛利方に織田信長の死を知らせる使者からだったようです。

 

斎藤利三と密談する明智光秀

 

 

光秀は毛利に信長の死を伝える事で羽柴秀吉の軍勢に逆襲をかけさせるつもりでした。事態を知った秀吉は使者を口封じし、同時に周囲の見張りを増やして怪しいヤツは全て捕らえるよう命じ、急いで毛利方の安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)と講和をまとめると6月4日午後には撤退を開始します。

 

戦にめっぽう強い柴田勝家

 

一方の柴田勝家が本能寺の変を知ったのは、遅くとも6月6日であるようで、この日の夜に退却に転じています。秀吉よりも2日も遅いのですが勝家が緘口令(かんこうれい)を敷いた様子はなく本能寺の変は勝家のみならず織田方の将兵にあまねく知れ渡ったと推測できます。速度もさることながら情報を秘匿した秀吉と秘匿できなかった勝家では致命的な差が生じました。

 

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崩壊する北陸方面軍

nobunaga-oda-Honnoji(本能寺の変の織田信長)

 

退却を開始した羽柴軍に対し、毛利側が本能寺の変を知るのは翌5日の事で紀州の雑賀衆からの情報によるとされます。秀吉に一杯食わされたと毛利軍は憤り、吉川元春(きっかわもとはる)は秀吉を追撃しようと主張しますが、小早川隆景は一度盟約を結んだものを血判も乾かないうちに破っては武士の名が廃ると反対して抑えたそうです。

逃亡する兵士 日本史ver

 

さて、ここで毛利方が本能寺の変を知ったのが6月5日である事に留意する必要があります。本能寺の変の情報は、3日で219キロ離れた備中高松城まで届くのです。これを考えると6月6日にようやく退却を開始した柴田勝家の情報の入手がいかに遅いかが分かります。しかも情報が秘匿できなかった北陸方面軍では信長の死によって続々と離脱する人間が出てきていました。これは情報を秘匿して直属の2万の軍勢を崩壊させる事無く、京都まで帰還できた秀吉と比較すると雲泥の差と呼ぶしかない失策でしょう。

 

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邪魔された勝家、されない秀吉

上杉景勝

 

北ノ庄城に退却した柴田勝家は、当初意気軒昂で6月10日前後には大坂にいた丹羽長秀と光秀を討つ計画を書状で出しています。しかし、勝家が近江に向かうのは6月18日と書状を出してから8日も経過してからでした。理由は、本能寺の変を知った越後の上杉勢が失地回復をはかるために、越中と能登の国人衆に信長が死んだ事を吹聴してまわった事でした。

 

清須会議の参加に間に合わなかった滝川一益

 

 

すでに関東の滝川一益や信濃の森長可(もりながよし)も国人衆の反乱で窮地に陥っていて、勝家も本拠地の北ノ庄城を留守にするわけにはいかなくなったのです。一方で秀吉は6月4日に備中高松城を出発し本拠地の姫路城に戻ったのは6月7日だと考えられています。この間に将兵の脱落や崩壊は起きず、秀吉は姫路城で充分に休息し、全軍をもって6月13日の山崎の戦いに望む事になります。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

kawauso編集長

 

こうしてみると秀吉の強運もさることながら、万が一の事態に対処する情報管理意識の高さが浮き彫りになります。秀吉は次第に独裁傾向を強め、またよく重臣に裏切られる信長の様子を見ていて、万が一の事態は近いと考え、そのために出来る手は全て打っていたように思えます。逆に勝家は、そこまで危機意識を持っていなかったので、本能寺の変に対し有効な措置が取れないまま、秀吉に敗北したと言う事かも知れません。

 

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カワウソ編集長

カワウソ編集長

日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
【好きな歴史人物】
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