鎌倉時代の中期、蒙古襲来という国難の中、新興の仏教僧侶たちが幾人も登場しました。その中でも、異彩を放ち、近年まで、その存在を疑われていたのが、「一向俊聖」です。一向は、「時宗(時衆)」の宗祖「一遍智真(遊行上人)」と同年で、似た経歴を持っていたため、長年混同されてきた経緯がありました。
そして、今回注目するのは、その「一向」という名です。「一向」と言えば、戦国時代に頻繁に起きた「一向一揆」が有名です。その集団は、「一向宗」とも呼ばれましたが、一向宗は、一向俊聖の教えを継承していたのでしょうか?
何らかの繋がりがあったのか?など、素朴な疑問が出てきますね。調べてみましたので、ご一読ください。
この記事の目次
一向俊聖も一遍智真も、そもそも浄土宗の門下だった!
まず、押さえておきたい知識として、一向俊聖は、「法然上人」を宗祖とする「浄土宗」の流れであったということです。これは、「時宗」の一遍智真も同じです。浄土宗の僧侶の門下として学んだのです。そして、一遍の時宗の記録の『時宗要略譜』(1697年・元禄10年成立)には、一向俊聖は、一遍の弟子と記されているようです。
また、伝記資料として知られている、仏教歌論書『野守鏡』(1295年・永仁3年成立)や絵巻物『天狗草紙』(1296年・永仁4年成立)には、一遍に帰依した信徒が描かれているのですが、彼らが見に纏っている衣は、一向俊聖に帰依した信徒が着ている衣と同じだというのです。つまり、実際は、一向俊聖の信徒なのですが、一遍の信徒だと勘違いされていたという訳です。
さらに、当時の日本の仏教界の権力者たちからも、誤解されていたようなのです。ですから、多くの一般庶民から見ても、一向俊聖の信徒も、一遍の信徒も、同じように見えていたのだと思います。そのため、一向俊聖の信徒は、一遍の「時宗」の一派だとも言われてきた歴史があります。元を辿ると、一向俊聖も一遍も、浄土宗の流れなので、そのような誤解は無理もないような気がします。
一向俊聖も一向一揆も、一向宗だったのか?
それでは、一向俊聖の信徒は、戦国時代に登場した「一向一揆」や「一向宗」に繋がるのか?という疑問に答えていきます。端的に答えますと、それは、「間違いではない」のです。「正しい」と言えます。どうしてこういう言い方になるのかと言いますと、まず、一向俊聖の下に集まった信徒は「一向衆」や「一向宗」と呼ばれたという事実があるからです。
ただ、一向一揆を主導した「浄土真宗本願寺教団」の門徒たちも「一向宗」と呼ばれていたという事実もあるのです。しかし、浄土真宗の一向宗と、一向俊聖の一向宗は全くの別物なのです。(※ここから、この記事では、分かりやすく区別するため、浄土真宗系の人々は「一向宗」と記し、「一向俊聖」系の人々は「俊聖派」と記します。)どうして、このように紛らわしいことになったのでしょうか?
それは、まず、浄土真宗の門徒は、念仏を唱える際に必ず「一向」という文言を入れて強調していたということです。「一向=ただひたすらに」という意味です。それで、「一向宗」と呼ばれるようになったと言うのです。俊聖派も、元々、念仏を唱えるときに「一向」と唱えながら、各地を遊行していました。違いは何かと言えば、俊聖派には「踊り」があり、積極的に「放浪」、つまり「遊行」をしていたということです。
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【軽蔑されてきた俊聖派】
しかし、浄土真宗の僧侶たちは、俊聖派を煙たがっていて、一緒にしないでほしいという嘆願書も作っていたというのです。
何故でしょうか?
それはやはり、俊聖派の人々が念仏を唱えながら踊る姿が特異に見えたからでしょうか。俊聖派の多くは、頭や肩を激しく速く動かし、野生馬の如く、踊り狂うように念仏を唱えていて、さらに、一所不在で各地を放浪していたと言われています。その状況を端から見ていると、狂人の集団の浮浪者のように見えて、一緒にされたくないという、侮蔑の感情が働いたと考えられます。
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浄土真宗が一向宗と呼ばれた時期は?
ここで、浄土真宗が「一向宗」と呼ばれ始めた時期を解説します。まず、14世紀(1300年代)が終わる頃までは、そう呼ばれてはいなかったようです。(時代区分では、鎌倉時代末期から南北朝時代になりますね。)
ちなみに、13世紀後半の、一向俊聖の生前や、その死の直後の頃は、「一向宗(衆)」とは、「俊聖派」のことを指していたのだそうです。浄土真宗系の人々が、「一向宗」だと確実に呼ばれていたのは、浄土真宗の再興の祖「蓮如上人」が登場した時代(15世紀半ば)ということなのです。室町時代の中期にあたるということですね。室町時代の前期から中期には、「一向宗」と「俊聖派」が混同されていた印象です。
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俊聖派の衰退
このように、長年、二つの宗派が混同されてきた状況だったのですが、ある事変の勃発により、変化が訪れたのです。つまり「応仁の乱」(1467年〜1477年)の勃発です。国家が二分された大乱で、京の都が戦場にもなり、後の戦国時代に入る切っ掛けとなった事変です。
この大乱以降、「俊聖派」に属する人々は、急速に、一遍の「時宗(時衆)」や「浄土真宗」など、他の宗派に流れ始めたようなのです。1474年(文明6年)頃になると、俊聖派は息を潜めるくらいとなりました。すると、浄土真宗の僧侶たちが、自ら「一向宗」と呼ばれても差し支えないと言い出したのです。どうしてそうなったのでしょうか?
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応仁の乱の余波
俊聖派は、先述したように、踊り狂うように念仏を唱えて、各地を放浪していた者が多くいたので、狂信的な異端者として周囲から見られていたということです。特に、権力者側から見れば、不穏分子や反乱分子に見えた可能性が強いのです。暴動を起こす恐れを感じたと思われます。
何と言っても、当時は、応仁の乱が起こり、それは11年も続いた戦乱の最中でした。京都の市中(洛中)の各所が、戦火に包まれることもありました。当時の京の都には、朝廷も幕府もあり、異端とも言える「俊聖派」は、いつ火種となってもおかしくないから、優先して排除すべき存在と判断された可能性があります。
日本史ライターのコーノの独り言
権力の中枢からは徹底した弾圧の対象となっていたかと思われます。全員処刑されるレベルとなっていたかもしれません。それを察した俊聖派の人々は、自ら離散していき、浄土真宗や時宗などの他の宗派に鞍替えしたようなのです。俊聖派は、歴史の表舞台から姿を消したように見えました。
ただ、その後も、俊聖派の信徒たちは、特に時宗系の寺院などで、息を潜めながらも、確実に存在していたのです。「時宗系の一向派」と呼ばれていたようです。江戸時代から明治時代にかけては、その「一向派」は、時宗から独立しようとした動きもあったとのことです。20世紀の昭和時代に入って、一向の「俊聖派」の信徒たちは、「時宗系の一向派」から脱して、「浄土宗」に帰属したとの記録があります。
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現代にも息づく一向俊聖の影響
そして、時が流れ、現在、一向俊聖の終焉の地と伝わる「浄土宗本山蓮華寺」(滋賀県米原市番場)では、毎年11 月18日に「一向上人開山忌」が行われています。一向俊聖が若い頃に学んだ、浄土宗系の寺院で、このような行事が行われてきたと考えると、異端者として扱われてきた俊聖を包み込んでいるという、仏心という慈悲の温かさが伝わってきます。故郷で一向俊聖が安らかに眠っているような印象もありますね。
【了】
【主要参考資料】
・『日本の歴史 8 蒙古襲来』黒田俊雄 著(中央公論新社)
・『一遍仏教と時宗教団』長澤昌幸 著(法蔵館)
・『踊念仏』大橋俊雄(オオハシシュンノウ)著(筑摩書房)
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