戦国時代は売り手市場であり、サムライ達は武力や知略があれば、次々と雇い主を変えて、さらによい待遇を求めるのが普通でした。しかし雇い主と言えど人間、なかには出奔する部下を恨んで再就職を妨害する「奉公構」を出した性格が悪い大名もいたのです。今回はサムライにとっては死刑に等しい奉公構を解説します。
この記事の目次
奉公構とは?
奉公構は、安土桃山時代から江戸時代において大名家が家臣に対して科した刑罰で、主君の許しを得ない限り将来の奉公が禁ぜられることを意味します。単純な追放刑なら、別の大名に仕える道もありますが、構の厳しさは将来に渡って仕官が禁止される事で、どこの大名家に行っても奉公構が出されたと知れると仕官がかなわないのです。これでは事実上、武士として生活が出来ないので、サムライの死刑宣告に等しい処分でした。
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どんな場合に奉公構になる?
では、どんな時に奉公構が出されたのでしょうか?第一には罪を犯して改易された家臣が該当し、第二は主人の不興を買って出奔した家臣について出されました。奉公構は回覧板のように各大名家に回され、他家がこれを召し抱えたりしないように釘を刺すほどに徹底していました。また、元の主君が奉公構を受けた武士の引き渡しを求めた場合には、大名には、その者を捕らえて引き渡す義務があり、取り逃がすと罰を受ける事になりました。
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秀吉の天下統一で奉公構が厳しくなる
奉公構の概念は戦国大名の分国法である今川仮名目録や甲州法度次第、塵芥集などにすでに登場します。当時、大名と家臣の関係は契約関係に近かったので、奉公構を定めないと家中の秩序が保てなかったようです。ただ戦国前期には大名の所領は小さかったので、奉公構を出されても領国を越えてしまえば仕官の自由がありました。しかし、豊臣秀吉が天下を統一したことで、奉公構を日本全国に行き渡らせることが可能になります。
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自由に主君を選べなくなる武士
奉公構が徹底される事で、武士達は仕官と出奔を繰り返して出世していくのが難しくなり出奔には大きなリスクが伴うようになります。こうして主君と部下の関係は固定され、身分制が厳格になっていくのです。ただ、豊臣政権下での奉公構は大名の力関係によっては、厳格に守られてはいなかったようで、蒲生氏郷が領地拡大で家臣が不足し奉公構を受けた浪人の雇用を秀吉に公認されたこともあったようです。
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奉公構で大坂の陣で豊臣についた浪人たち
奉公構になったサムライ達の中には、どこにも雇ってもらえず、大坂の陣で浪人として豊臣家に入った、後藤又兵衛や塙団右衛門がいます。この人々は別に豊臣に忠義を誓ったわけではありませんが、そうしないと路頭に迷うしかないので、そうした奉公構の被害者であるとも言えます。
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あの藤堂高虎に奉公構された渡辺了
戦国大名藤堂高虎は、自身も何度も主君を変えた経験から、部下が家来を辞めても送別会を開いて記念の品を与えて、送り出すなど物分かりがよい主君でしたが、たった1人、高虎が奉公構を出して許さなかった人物がいます。それが渡辺了で「三勘兵衛」と称された名将ですが、わがままで独断専行のサムライで、大坂の冬の陣で戦い方を巡って高虎と対立。夏の陣では七回に及ぶ撤退命令を無視して追撃を続け、首を300も挙げますが味方にも甚大な被害を与えます。これで高虎と不仲になり出奔しますが、高虎も業を煮やして奉公構を出し、ついに生涯、他家に仕官する事は叶いませんでした。
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戦国時代ライターkawausoの独り言
今回は、サムライの死刑宣告、奉公構について解説しました。気性が荒い戦国の武士は、主君と衝突する事も多かったでしょうから、この奉公構を受ける人も多数に上った事でしょうね。
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