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畠山重忠、伝説の裏に隠された真実とは?武士の鑑が示すものに迫る

18/11/2023


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

畠山重忠

 

 

畠山重忠はたけやましげただ」(はたけやましげただ)は鎌倉幕府かまくらばくふ創設の功臣で、その多くの功績から「坂東武士の鑑」と当時から絶賛されていたほどの人物です。そんな畠山重忠はたけやましげただの働きは多くの伝説を生みだしました。今回の記事ではそんな畠山重忠はたけやましげただの伝説を紹介していきます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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畠山重忠のプロフィール

源義朝

 

 

畠山氏は元々は源氏みなもとしの家人でしたが、「平治の乱へいじのらん」で源氏みなもとしの棟梁「源義朝みなもとのよしあさ」が敗死すると平氏たいらしに仕えることになります。畠山重忠はたけやましげただ平氏たいらしの武士として仕えていましたが、挙兵した源頼朝みなもとのよりともに降伏し、以後は源氏みなもとしに従うことになります。

 

源義経 vs 木曽義仲

 

 

その後は源義仲みなもとのよしなかとの戦いや「一の谷の戦いいちのやのたたかい」など多くの戦で功績をあげ、平氏たいらし滅亡と鎌倉幕府かまくらばくふ創設に大いに貢献することになります。しかし、頼朝の死後に実権を握った北条氏ほうじょうしと揉め、謀反の疑いをかけられて討たれてしまいます。そんな畠山重忠はたけやましげただは「模範的な武士」として多くの伝説を残しているのです。

 

 

怪力で武士を投げ飛ばした?

ワイルドすぎて源頼朝と対立した木曾義仲

 

 

源義仲みなもとのよしなかと頼朝の対立は深まり、彼らは「宇治川」で激突します。重忠は川を渡ろうとしますが、乗っていた馬を矢で射られてしまい、徒歩で川を渡ることになります。同じく戦に参加していた「大串重親おおくしせんしん」も馬を失い、宇治川に流されそうになりますが、何とか重忠にしがみつきます。

 

実は重親は重忠が「烏帽子親えぼしおや」を務めた人物でもあるのですが、そんな重親を重忠はなんと怪力で川の向こう岸まで投げ飛ばしたのです。投げ飛ばされた重親は立ち上がるなり、
「大串重忠、先陣!」と叫び、見ていた敵味方の武士たちの笑いを誘ったそうです。

 

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山の名前の由来になる

 

埼玉県飯能市さいたまけんはんのうしに「棒ノ折山ぼうのおりやま」という山があります。重忠は鎌倉に出向くときはこの山の麓を通るのですが、美男で有名な重忠を一目見ようと娘たちが群がります。それを邪魔に感じた重忠は麓を避け山に登り始めます。するとそこはとても景色が良く、力がみなぎってきて、思わず重忠は杖にしていた石の棒をへし折ってしまったそうで、これが山の名前の由来になったのだとか。また、別の説にはこの山で重忠が落馬してしまい、男性の大事な下半身の棒を折ってしまったから山の名前が付いた、という痛い伝説もあります。

 

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馬を担いで崖を下った?

源義経の鵯越の逆落とし

 

義経が「逆落とし」で有名になったのが「一ノ谷いちのやの戦い」です。義経は平氏たいらしの意表を突くため、一ノ谷いちのやの裏手の崖を駆け下りることを決断します。そこはかなり険しい岩場でしたが、義経たちは一気にそこを駆け下り、思いもしなかった場所から奇襲された平氏たいらし軍は逃げ出します。

 

 

義仲討伐の総大将に抜擢された源範頼

 

 

 

幕府の公式文書「吾妻鏡」によると、この戦いで畠山重忠はたけやましげただは「源範頼」軍に所属しており、逆落としをしなかったようですが、「源平盛衰記」という軍紀物語では畠山重忠はたけやましげただは伝説を残します。それは「馬にケガをさせてはいけない」と、重忠は「馬を担いで」崖を下ったというのです。重忠の故郷である現在の「埼玉県深谷市」には馬を担いだ畠山重忠はたけやましげただの銅像が建てられています。

 

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源義経

 

 

実らぬ恋が命を散らす

 

現在の東京都国分寺市「恋ヶ窪」には鎌倉時代宿場町と遊郭がありました。そこの遊女たちは近くにある池に自分の姿を映し、身なりを整えていたと言い、その池は「姿見の池」と呼ばれるようになりました。畠山重忠はたけやましげただはそこで働く遊女「夙妻太夫(あさつまたゆう)」と恋仲になりました。

 

 

しかし、重忠は平家と決戦するために西国に向かってしまいます。夙妻太夫は重忠の事をあきらめることができませんでしたが、夙妻太夫に恋する男がいました。男は夙妻太夫に重忠をあきらめさせるために、「畠山重忠はたけやましげただは戦死した」と嘘をついたのです。夙妻太夫は悲しみ、姿見の池に身を投げて自ら命を絶ったのです。この伝説からこの地は「恋ヶ窪」と呼ばれるようになりました。

 

 

伝説の積み重ねで評価の高まった重忠

 

重忠の数々の伝説は彼の神格化に貢献しています。有名な「曽我物語」では兄弟を助ける武士として登場し、人形浄瑠璃の「出世景清」では清廉な武士の代表として登場します。その他歌舞伎などでも畠山重忠はたけやましげただは素晴らしい武士として度々登場し、伝説的人物となったのです。

 

 

日本史ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

畠山重忠はたけやましげただの伝説は彼の評価を高めるものばかりでした。実際の重忠はどんな人物だったかはわかりませんが、素晴らしい伝説があるという事は人望のある人物だったのでしょうね。

 

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みうらひろし

日本史で好きなところは一つの「決断」が大きく世の中を変えてしまうことでしょうか。そんな中でも「決断」にミスをしても、その後復活したりする人物には尊敬をかんじますね。自分もミスしてもあきらめずに過ごしたいものです。
好きな歴史人物:長宗我部盛親、立花宗茂

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