「畠山重忠」(はたけやましげただ)は鎌倉幕府創設の功臣で、その多くの功績から「坂東武士の鑑」と当時から絶賛されていたほどの人物です。そんな畠山重忠の働きは多くの伝説を生みだしました。今回の記事ではそんな畠山重忠の伝説を紹介していきます。
畠山重忠のプロフィール
畠山氏は元々は源氏の家人でしたが、「平治の乱」で源氏の棟梁「源義朝」が敗死すると平氏に仕えることになります。畠山重忠も平氏の武士として仕えていましたが、挙兵した源頼朝に降伏し、以後は源氏に従うことになります。
その後は源義仲との戦いや「一の谷の戦い」など多くの戦で功績をあげ、平氏滅亡と鎌倉幕府創設に大いに貢献することになります。しかし、頼朝の死後に実権を握った北条氏と揉め、謀反の疑いをかけられて討たれてしまいます。そんな畠山重忠は「模範的な武士」として多くの伝説を残しているのです。
怪力で武士を投げ飛ばした?
源義仲と頼朝の対立は深まり、彼らは「宇治川」で激突します。重忠は川を渡ろうとしますが、乗っていた馬を矢で射られてしまい、徒歩で川を渡ることになります。同じく戦に参加していた「大串重親」も馬を失い、宇治川に流されそうになりますが、何とか重忠にしがみつきます。
実は重親は重忠が「烏帽子親」を務めた人物でもあるのですが、そんな重親を重忠はなんと怪力で川の向こう岸まで投げ飛ばしたのです。投げ飛ばされた重親は立ち上がるなり、
「大串重忠、先陣!」と叫び、見ていた敵味方の武士たちの笑いを誘ったそうです。
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山の名前の由来になる
埼玉県飯能市に「棒ノ折山」という山があります。重忠は鎌倉に出向くときはこの山の麓を通るのですが、美男で有名な重忠を一目見ようと娘たちが群がります。それを邪魔に感じた重忠は麓を避け山に登り始めます。するとそこはとても景色が良く、力がみなぎってきて、思わず重忠は杖にしていた石の棒をへし折ってしまったそうで、これが山の名前の由来になったのだとか。また、別の説にはこの山で重忠が落馬してしまい、男性の大事な下半身の棒を折ってしまったから山の名前が付いた、という痛い伝説もあります。
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馬を担いで崖を下った?
義経が「逆落とし」で有名になったのが「一ノ谷の戦い」です。義経は平氏の意表を突くため、一ノ谷の裏手の崖を駆け下りることを決断します。そこはかなり険しい岩場でしたが、義経たちは一気にそこを駆け下り、思いもしなかった場所から奇襲された平氏軍は逃げ出します。
幕府の公式文書「吾妻鏡」によると、この戦いで畠山重忠は「源範頼」軍に所属しており、逆落としをしなかったようですが、「源平盛衰記」という軍紀物語では畠山重忠は伝説を残します。それは「馬にケガをさせてはいけない」と、重忠は「馬を担いで」崖を下ったというのです。重忠の故郷である現在の「埼玉県深谷市」には馬を担いだ畠山重忠の銅像が建てられています。
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実らぬ恋が命を散らす
現在の東京都国分寺市「恋ヶ窪」には鎌倉時代宿場町と遊郭がありました。そこの遊女たちは近くにある池に自分の姿を映し、身なりを整えていたと言い、その池は「姿見の池」と呼ばれるようになりました。畠山重忠はそこで働く遊女「夙妻太夫(あさつまたゆう)」と恋仲になりました。
しかし、重忠は平家と決戦するために西国に向かってしまいます。夙妻太夫は重忠の事をあきらめることができませんでしたが、夙妻太夫に恋する男がいました。男は夙妻太夫に重忠をあきらめさせるために、「畠山重忠は戦死した」と嘘をついたのです。夙妻太夫は悲しみ、姿見の池に身を投げて自ら命を絶ったのです。この伝説からこの地は「恋ヶ窪」と呼ばれるようになりました。
伝説の積み重ねで評価の高まった重忠
重忠の数々の伝説は彼の神格化に貢献しています。有名な「曽我物語」では兄弟を助ける武士として登場し、人形浄瑠璃の「出世景清」では清廉な武士の代表として登場します。その他歌舞伎などでも畠山重忠は素晴らしい武士として度々登場し、伝説的人物となったのです。
日本史ライターみうらの独り言
畠山重忠の伝説は彼の評価を高めるものばかりでした。実際の重忠はどんな人物だったかはわかりませんが、素晴らしい伝説があるという事は人望のある人物だったのでしょうね。
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